二日前の東洋経済オンラインに、黒田勝弘さんの筆で、韓国の総合雑誌『月刊中央』に掲載された日本の外交官・道上尚史氏のインタビュー記事が紹介されていたのが興味深かった。
『日本外交官が苦言「日本が韓国に失望した」理由』 https://toyokeizai.net/articles/-/457511
これが日本人向けインタビューであれば、当局者による言い訳がましい自己弁護か、さもなければ庶民感情をたしなめるか教え諭すかのようなお節介な啓蒙的な論調になりかねないが(笑)、韓国の雑誌で韓国人に向けたメッセージであるところがミソだ。その場合、韓国人に阿ってヨイショしがちで、少なくとも批判的であるべきところも矛先が鈍りがちだが、必ずしもそうではなく、慎重に言葉を選びながら、主張すべきは主張されているように見えるところを特筆すべきだろう。
例えば、ご自身のお父上は息子(たるご自身)の仕事柄、韓国に親近感を抱いていたのに、「もうあの国はいい、友達になれない国だとわかった」と言い出されたエピソードを紹介し、次のように指摘される。
「平均的な日本人の心が韓国から離れてしまった。現在は韓国への失望と“距離置き”の状況だ。これは一時的な現象ではなく、構造的変化と見なければいけない。韓国に対する偏見や優越感でそうなったのではない。昔に比べ、日本人の韓国への知識は大幅に増えている。韓国をリスペクトしていた人ほど失望が深いともいえる」
この最後の「韓国をリスペクトしていた人ほど失望が深い」という言葉は重い。私たち日本の庶民感情を伝えて余すところがない。
また、一般論として外交の心構えを次のように説いておられる。
「外交は相手があるため自国の思い通りにはならないものだ。そこでまずは相手がなぜそう主張するのか、相手の事情をよくリサーチする必要がある。国際法、国際慣例はもちろん把握しなければならない。国内説得も重要だ。国益上、最善の方針が国民に不人気なこともあるからだ。自由でないのが外交だ。相手を十分に研究してこそ外交が可能であり、それは屈辱ではない。外交を国内の世論や雰囲気、あるいは「コード(符丁=仲間意識)」で発想すれば国の羅針盤はうまく機能せず、漂流する恐れもある」
なお、ここで「コード」は、黒田氏によると、文在寅政権下で「コード人事」などといって韓国でよく批判的に使われたもので、政権を動かしている反政府学生運動出身者の左翼民族主義的な「視野の狭い仲間内の考え」といった意味で、文政権の対日外交に対する不満、批判をそうした言葉でチクリ語ったものだと解説される。
当たり前と言われれば当たり前なのだろうが、日韓関係に即して言えば、実に含蓄がある。韓国の行政にしても司法にしても、国民感情が優先されると、日本では批判的に論じられ、それを制御出来ない政治が弱い、あるいはそうした国内事情をテコに日本との対外関係を動かそうとする政治の独善的な無謀が批判的に論じられる。
そして最後に、日韓関係回復に向けて助言を求められて、次のように答えたそうだ。
「お互い客観的に、少し余裕のある気持ちで相手を見、国と国との約束や礼儀を守る関係になることを願っている。以前は問題が生じれば韓国が日本に憤慨し批判する場面が多かったが、最近はその基本構図が変わった。韓国はまずこの点を冷静に直視していただきたい。“われわれは日本のことをよく知っている、日本は韓国を知らない”という固定観念からは何も生まれないだろう。」
これは単なる自省や相手への批判を超えた、強いて言えば相互への「憂い」とでも言うべきものだろう。かつて坂本龍馬が西郷隆盛に会ったときの印象を「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と語って、それを聞いた勝海舟は、龍馬もなかなか鑑識のある奴だと評したものだった。問題は、韓国側でこの「憂い」をもった提言がどこまで響くか?ということだ。
日・韓や米・中を見ていると、根本的に会話が通じていないのではないか、そこに厳然たる「認知の壁」が横たわっているのではないか、という甚だ独りよがりの勝手な思い込みで絶望的になること屡々なのだが、果たしてどうだろうか。首脳同士が会う・会わないで反発し合う大人げない対応には困ったものだが、外交当局の実務レベルでも、もしや「認知の壁」に遭遇して無力感に囚われているのではないかと(すなわち、このインタビューから察せられる通り、外交当局同士では埒が明かなくて世論に訴えるしかない状況ではないかと)気にかかる。なにしろ、経済成長を通して、すっかり先進国気取りで芽生えたナショナリズムが、かつて東アジアに特有の華夷秩序観と共鳴して、歴史認識問題で明らかなように、歴史的事実などどうでもよくて、正義は自らにあると信じて疑わないといった一種のイデオロギーが覆う国である。先進国を気取る以上、近隣国たる我が国への気安い(まるで身内であるかのような)対応が、欧米諸国に対するかしこまったも対応とは異なるというダブルスタンダードの不当性に、気づいて欲しいものである(今さらではあるが)。
『日本外交官が苦言「日本が韓国に失望した」理由』 https://toyokeizai.net/articles/-/457511
これが日本人向けインタビューであれば、当局者による言い訳がましい自己弁護か、さもなければ庶民感情をたしなめるか教え諭すかのようなお節介な啓蒙的な論調になりかねないが(笑)、韓国の雑誌で韓国人に向けたメッセージであるところがミソだ。その場合、韓国人に阿ってヨイショしがちで、少なくとも批判的であるべきところも矛先が鈍りがちだが、必ずしもそうではなく、慎重に言葉を選びながら、主張すべきは主張されているように見えるところを特筆すべきだろう。
例えば、ご自身のお父上は息子(たるご自身)の仕事柄、韓国に親近感を抱いていたのに、「もうあの国はいい、友達になれない国だとわかった」と言い出されたエピソードを紹介し、次のように指摘される。
「平均的な日本人の心が韓国から離れてしまった。現在は韓国への失望と“距離置き”の状況だ。これは一時的な現象ではなく、構造的変化と見なければいけない。韓国に対する偏見や優越感でそうなったのではない。昔に比べ、日本人の韓国への知識は大幅に増えている。韓国をリスペクトしていた人ほど失望が深いともいえる」
この最後の「韓国をリスペクトしていた人ほど失望が深い」という言葉は重い。私たち日本の庶民感情を伝えて余すところがない。
また、一般論として外交の心構えを次のように説いておられる。
「外交は相手があるため自国の思い通りにはならないものだ。そこでまずは相手がなぜそう主張するのか、相手の事情をよくリサーチする必要がある。国際法、国際慣例はもちろん把握しなければならない。国内説得も重要だ。国益上、最善の方針が国民に不人気なこともあるからだ。自由でないのが外交だ。相手を十分に研究してこそ外交が可能であり、それは屈辱ではない。外交を国内の世論や雰囲気、あるいは「コード(符丁=仲間意識)」で発想すれば国の羅針盤はうまく機能せず、漂流する恐れもある」
なお、ここで「コード」は、黒田氏によると、文在寅政権下で「コード人事」などといって韓国でよく批判的に使われたもので、政権を動かしている反政府学生運動出身者の左翼民族主義的な「視野の狭い仲間内の考え」といった意味で、文政権の対日外交に対する不満、批判をそうした言葉でチクリ語ったものだと解説される。
当たり前と言われれば当たり前なのだろうが、日韓関係に即して言えば、実に含蓄がある。韓国の行政にしても司法にしても、国民感情が優先されると、日本では批判的に論じられ、それを制御出来ない政治が弱い、あるいはそうした国内事情をテコに日本との対外関係を動かそうとする政治の独善的な無謀が批判的に論じられる。
そして最後に、日韓関係回復に向けて助言を求められて、次のように答えたそうだ。
「お互い客観的に、少し余裕のある気持ちで相手を見、国と国との約束や礼儀を守る関係になることを願っている。以前は問題が生じれば韓国が日本に憤慨し批判する場面が多かったが、最近はその基本構図が変わった。韓国はまずこの点を冷静に直視していただきたい。“われわれは日本のことをよく知っている、日本は韓国を知らない”という固定観念からは何も生まれないだろう。」
これは単なる自省や相手への批判を超えた、強いて言えば相互への「憂い」とでも言うべきものだろう。かつて坂本龍馬が西郷隆盛に会ったときの印象を「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と語って、それを聞いた勝海舟は、龍馬もなかなか鑑識のある奴だと評したものだった。問題は、韓国側でこの「憂い」をもった提言がどこまで響くか?ということだ。
日・韓や米・中を見ていると、根本的に会話が通じていないのではないか、そこに厳然たる「認知の壁」が横たわっているのではないか、という甚だ独りよがりの勝手な思い込みで絶望的になること屡々なのだが、果たしてどうだろうか。首脳同士が会う・会わないで反発し合う大人げない対応には困ったものだが、外交当局の実務レベルでも、もしや「認知の壁」に遭遇して無力感に囚われているのではないかと(すなわち、このインタビューから察せられる通り、外交当局同士では埒が明かなくて世論に訴えるしかない状況ではないかと)気にかかる。なにしろ、経済成長を通して、すっかり先進国気取りで芽生えたナショナリズムが、かつて東アジアに特有の華夷秩序観と共鳴して、歴史認識問題で明らかなように、歴史的事実などどうでもよくて、正義は自らにあると信じて疑わないといった一種のイデオロギーが覆う国である。先進国を気取る以上、近隣国たる我が国への気安い(まるで身内であるかのような)対応が、欧米諸国に対するかしこまったも対応とは異なるというダブルスタンダードの不当性に、気づいて欲しいものである(今さらではあるが)。