年始と言いながら一週間が過ぎた。昨日は底冷えのする一日で、都心でも10センチの雪が積もり、昨晩は久しぶりに駐車場の雪掻きをした。それを知った近くに住む知人が驚いたのは、どか雪ではなく、今日の昼には陽のあたるところは溶けて消えてしまう程度だったからだが、雪掻きの「道具」と「意識」があるから、かも知れない。四半世紀前に4年間住んだボストンは、感謝祭の頃から3月一杯は雪に覆われ、雪が降った日の朝、雪掻きをしないで共同駐車場に一台だけ取り残されると酷い目に遭う(タウンハウスが契約する業者の除雪車が入るのだが、除雪の際に寄せられる雪の壁で車が囲まれてしまう)ので、ちょっとした雪→雪掻きしなきゃ思考がクセになっている(笑)。そして車上の雪を振り払う当時の「道具」は今でも重宝している。
閑話休題。かつて三が日は商売が止まるので、各家庭は自衛のためにお節をつくるのが習いだった。しかし最初こそもの珍しい餅にもすぐに飽き、変わり映えのしない正月番組も見飽きて、子供心に世の中が早く元に戻らないかと待ち遠しかったものだ。その後、いつの間にか元旦営業が当たり前になり、さらに最近は人手不足のあおりで揺り戻しがあるとは言え、今年も近所のヨーカドーやコンビニは元旦も休まず営業されており、正月は暦の上で年があらたまるだけで、かつてのけだるい正月気分からは遠ざかったままである。今思うと、イスラム世界のラマダンとまでは言わないが、年に一度、数日間ではあるが日常をほぼ離れてこそ日常が有難く思える貴重なイベントだったのが懐かしい。
そうは言っても幸先という言葉があるように晴れやかであって欲しい年始だが、オミクロン株が日本でも暴れ出し、あっという間に全国の感染者数が六千人を超えたようだ。日本のこともさることながら、お隣の中国のことも、お節介ながら気になってしまう。
イアン・ブレマー氏率いるユーラシア・グループから、年始恒例、世界の「十大リスク」が発表された。その第一番目は、“No Zero Covid”(ゼロコロナ政策の失敗)だった・・・と言うよりこれから始まることとして、不吉に予想されている。問題は、欧米諸国がウィズコロナに移行しつつある中、なおも“ゼロコロナ”に拘る中国で、折しも北京では冬季五輪を控え、世界中から人が集まることだ。よりによって(とマスコミは騒ぎ立てた)デルタ株が流行するさなかに五輪が東京で開催されたように、今、オミクロン株が流行するさなかに五輪が北京で開催され、東京では一般の観戦は認められなかったのに、北京では中国人観戦客が受け入れられ、外国人と接触する。ただでさえ物流が停滞し、物価が上がりつつあるご時世に、これまでまがりなりにもコロナ対策の成功例と見做されて来た“世界の工場”中国で、コロナ対策に大失敗すれば悲劇的な状況が訪れないとも限らない。
ここで、「まがりなりにも」と断り書きしたのは、ジャーナリストの福島香織さんがJBpress誌上(*)で、中国にあって“ゼロコロナ”とは“コロナウイルス”を排除するのではなく、“コロナ感染者”を社会(街)から人里離れた郊外に排除(隔離)して、表面上なかったこと(=“ゼロ”)にするのを意味すると暴露されたからだ(中国人は当然、気づいていたのだろうけれども)。「市内の居住区に住民がおらず、空っぽであれば、そもそも人がいないのだから、ゼロコロナが達成されたことになる」のだそうだ。なんとも相変わらず奇妙な中国式ロジックだが、“ゼロ”にこだわる習近平主席のもと、「“中央からの無茶な指示を受けた現場官僚たちが、何とか帳尻を合わせるために人民を欺くロジック”として確立した」もので、これでも現場官僚たちにとっては“目標達成”して、“めでたしめでたし”と相成るのだそうだ。それを福島さんは、「毛沢東の『大躍進』に匹敵する非合理さ」であり、「問題発言した女子テニスプレーヤーを失踪させたり、あってはならない事故を起こした高速鉄道車両を穴を掘って埋めてなかったことにするのと同じといえば同じ」とまで指摘される。何でも“臭い物に蓋をする”中国らしい対応と言えるが、人民にとっては難儀な国である。秋には5年に一度の共産党大会を控え、三期目を視野に入れる習氏にとって、北京五輪と“ゼロコロナ”は絶対成功させなければならない、“無謬”たるべき中国共産党(それを牛耳る習氏)の象徴であろう。習氏にとっての正念場であり、世界への影響を考えれば、そこだけは習氏に頑張ってもらいたい(「ゼロ」に拘れとは言わないのだが、今さら撤回できないだろう)ものだと、切に思わないわけにはいかない。
こうして見ると、(前回も言ったように)コロナ禍対応は国の優劣や正邪を示すものと言うよりも国柄・土地柄を表すものだとつくづく思う。危機のときにこそ人柄なり国柄なりが表れるとする“あれ”である。野放図と言っては申し訳ないが奔放なアメリカ人から成る駐留米軍基地を抱える沖縄・山口・広島(はまん延防止等重点措置適用が決定された)や、反体制的気分が横溢すると言うのも言い過ぎかも知れない大阪が苦労するのは、よそ行き感が強いというのも田舎者の私の独断かもしれない首都・東京ほどの規律(あるいは個々人の自制)がなかなか守られない証ではないだろうか。それでも日本全体として見ればマシな方で、挨拶のキスやハグなどの濃厚接触が当たり前で声もデカくて同調圧力に屈するよりも自己主張が強い欧米諸国は、日本より規制が厳しくてもコロナ蔓延を抑え切れない。そんな日本でも、オミクロン株がいくら重症化率が低いとは言え、そしてインフルエンザ並みの対応(これが、とりあえず社会的に(疫学的には別にして)新型コロナ禍の「終焉」と言えるのだろう)が模索されているとは言え、絶対数が増えれば重症者の絶対数も増える。新年早々、なかなか気が抜けない日々が続く。
なお、岸田首相は“聞く力”を誇示して、唯我独尊的なところがあった前任・前々任者の失敗の轍を踏まないで、これまでのところは無難に高支持率を保ってきたのは、ひとえにコロナ禍が落ち着いていたからであって、言わばワクチン接種を強引に進めたスガ前首相の置き土産である。岸田さんにとって、そして当然、私たち国民にとっても、いよいよ試練が始まる。どうも岸田さんが頼りなげに見えるのは、安倍さんやスガさんに見られた、時に世論を気にしない強引さ、言わば信念の強さが見えて来ないからで、ポピュリズムのニオイを嗅ぎ取るから・・・などと思うのは、ただの我が儘なのも知れないが。
(*)「住民の強制隔離で感染者ゼロ?中国式『ゼロコロナ』のカラクリ」 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68333
閑話休題。かつて三が日は商売が止まるので、各家庭は自衛のためにお節をつくるのが習いだった。しかし最初こそもの珍しい餅にもすぐに飽き、変わり映えのしない正月番組も見飽きて、子供心に世の中が早く元に戻らないかと待ち遠しかったものだ。その後、いつの間にか元旦営業が当たり前になり、さらに最近は人手不足のあおりで揺り戻しがあるとは言え、今年も近所のヨーカドーやコンビニは元旦も休まず営業されており、正月は暦の上で年があらたまるだけで、かつてのけだるい正月気分からは遠ざかったままである。今思うと、イスラム世界のラマダンとまでは言わないが、年に一度、数日間ではあるが日常をほぼ離れてこそ日常が有難く思える貴重なイベントだったのが懐かしい。
そうは言っても幸先という言葉があるように晴れやかであって欲しい年始だが、オミクロン株が日本でも暴れ出し、あっという間に全国の感染者数が六千人を超えたようだ。日本のこともさることながら、お隣の中国のことも、お節介ながら気になってしまう。
イアン・ブレマー氏率いるユーラシア・グループから、年始恒例、世界の「十大リスク」が発表された。その第一番目は、“No Zero Covid”(ゼロコロナ政策の失敗)だった・・・と言うよりこれから始まることとして、不吉に予想されている。問題は、欧米諸国がウィズコロナに移行しつつある中、なおも“ゼロコロナ”に拘る中国で、折しも北京では冬季五輪を控え、世界中から人が集まることだ。よりによって(とマスコミは騒ぎ立てた)デルタ株が流行するさなかに五輪が東京で開催されたように、今、オミクロン株が流行するさなかに五輪が北京で開催され、東京では一般の観戦は認められなかったのに、北京では中国人観戦客が受け入れられ、外国人と接触する。ただでさえ物流が停滞し、物価が上がりつつあるご時世に、これまでまがりなりにもコロナ対策の成功例と見做されて来た“世界の工場”中国で、コロナ対策に大失敗すれば悲劇的な状況が訪れないとも限らない。
ここで、「まがりなりにも」と断り書きしたのは、ジャーナリストの福島香織さんがJBpress誌上(*)で、中国にあって“ゼロコロナ”とは“コロナウイルス”を排除するのではなく、“コロナ感染者”を社会(街)から人里離れた郊外に排除(隔離)して、表面上なかったこと(=“ゼロ”)にするのを意味すると暴露されたからだ(中国人は当然、気づいていたのだろうけれども)。「市内の居住区に住民がおらず、空っぽであれば、そもそも人がいないのだから、ゼロコロナが達成されたことになる」のだそうだ。なんとも相変わらず奇妙な中国式ロジックだが、“ゼロ”にこだわる習近平主席のもと、「“中央からの無茶な指示を受けた現場官僚たちが、何とか帳尻を合わせるために人民を欺くロジック”として確立した」もので、これでも現場官僚たちにとっては“目標達成”して、“めでたしめでたし”と相成るのだそうだ。それを福島さんは、「毛沢東の『大躍進』に匹敵する非合理さ」であり、「問題発言した女子テニスプレーヤーを失踪させたり、あってはならない事故を起こした高速鉄道車両を穴を掘って埋めてなかったことにするのと同じといえば同じ」とまで指摘される。何でも“臭い物に蓋をする”中国らしい対応と言えるが、人民にとっては難儀な国である。秋には5年に一度の共産党大会を控え、三期目を視野に入れる習氏にとって、北京五輪と“ゼロコロナ”は絶対成功させなければならない、“無謬”たるべき中国共産党(それを牛耳る習氏)の象徴であろう。習氏にとっての正念場であり、世界への影響を考えれば、そこだけは習氏に頑張ってもらいたい(「ゼロ」に拘れとは言わないのだが、今さら撤回できないだろう)ものだと、切に思わないわけにはいかない。
こうして見ると、(前回も言ったように)コロナ禍対応は国の優劣や正邪を示すものと言うよりも国柄・土地柄を表すものだとつくづく思う。危機のときにこそ人柄なり国柄なりが表れるとする“あれ”である。野放図と言っては申し訳ないが奔放なアメリカ人から成る駐留米軍基地を抱える沖縄・山口・広島(はまん延防止等重点措置適用が決定された)や、反体制的気分が横溢すると言うのも言い過ぎかも知れない大阪が苦労するのは、よそ行き感が強いというのも田舎者の私の独断かもしれない首都・東京ほどの規律(あるいは個々人の自制)がなかなか守られない証ではないだろうか。それでも日本全体として見ればマシな方で、挨拶のキスやハグなどの濃厚接触が当たり前で声もデカくて同調圧力に屈するよりも自己主張が強い欧米諸国は、日本より規制が厳しくてもコロナ蔓延を抑え切れない。そんな日本でも、オミクロン株がいくら重症化率が低いとは言え、そしてインフルエンザ並みの対応(これが、とりあえず社会的に(疫学的には別にして)新型コロナ禍の「終焉」と言えるのだろう)が模索されているとは言え、絶対数が増えれば重症者の絶対数も増える。新年早々、なかなか気が抜けない日々が続く。
なお、岸田首相は“聞く力”を誇示して、唯我独尊的なところがあった前任・前々任者の失敗の轍を踏まないで、これまでのところは無難に高支持率を保ってきたのは、ひとえにコロナ禍が落ち着いていたからであって、言わばワクチン接種を強引に進めたスガ前首相の置き土産である。岸田さんにとって、そして当然、私たち国民にとっても、いよいよ試練が始まる。どうも岸田さんが頼りなげに見えるのは、安倍さんやスガさんに見られた、時に世論を気にしない強引さ、言わば信念の強さが見えて来ないからで、ポピュリズムのニオイを嗅ぎ取るから・・・などと思うのは、ただの我が儘なのも知れないが。
(*)「住民の強制隔離で感染者ゼロ?中国式『ゼロコロナ』のカラクリ」 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68333