【180ページ】
私はすでに、自由の互酬性(相互性)が普遍宗教として開示されたこと、そして、歴史的に社会運動は普遍宗教の言葉を通し、また千年王国のような観念の力を通してなされてきたことを指摘してきました。しかし、ここで注意したいのは、それが宗教というかたちをとるかぎり、教会=国家的なシステムに回収されてしまうということです。過去においても、現在においても、宗教はそのように存在しています。
【181〜182ページ】
カントのいう「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」という道徳法則は、資本主義においては実現できません。貨幣と商品(資本と賃労働)の非対称性があるかぎり、そこにおかれた個人は他者を手段としてのみ扱うことを余儀なくされるのです。もちろん、国家による統制や富の再分配によって、資本主義のもたらす階級格差を解消しようとすることは可能です。しかし、階級格差をもたらすシステムそのものを変えるべきなのです。
そのためにカントが考えたのは、第一に、商人資本の支配を斥けた小生産者たちのアソシエーションでした。(中略)
社会主義とは互酬的交換を高次元でとりかえすことにある。〜、そもそも富の格差が生じないような交換システムを実現することであるのです。
第二に、カントは「神の国」の実現を具体的なかたちで考えていました。諸国家がその主権を譲渡することによって成立する世界共和国、それが「神の国」なのです。カントは「永遠平和」を実現するための国際連合を提唱しました。〜単なる平和論ではない。資本と国家を揚棄する過程の第一歩なのです。
(ken) 日本の労働運動は、賀川豊彦さんをはじめとするキリスト教徒の貢献を抜きに語れないし、世界の労働組合連合組織においても、1920年に国際キリスト教労連(IFCTU)結成が母体となり、現在の国際労働組合総連合(ITCU)に至っています。私自身の反省でもありますが、「社会主義」という考え方自体はマルクス主義者の専売特許ではなくて、キリスト教の由来していることを再認識しました。
時の権力と宗教との関係は、世界史や日本史でもたびたび登場し、排斥・弾圧されたり、国家宗教化したりを繰り返しています。本書によって、自分の中で曖昧模糊だった理解が幾分か整理されました。自分としては、ひととおり宗教について勉強してきたつもりでしたが、生半可な知識にとどまっていたことを痛感しました。それにしても、国際連盟がカントの考えに基づいていたとは、本書や『トランスクリティーク』を読むまで知りませんでした。自分自身の勉強不足を心底感じられました。(つづく)