この世の終わりに見え また事実そう感じるかもしれない。
しかし それは表層脳文化崩壊の反転現象である。
表層脳価値に縛られた者にとっては築き上げた楼閣の崩壊であろう。
だが 眼(まなこ)を観開き数千年の誤謬を量子演算すれば
それらは崩壊ではなく
自然量子網(クライン環)が潜在層から約束通り甦る
大正転の起動現象であることが判るだろう。
この世の終わりに見え また事実そう感じるかもしれない。
しかし それは表層脳文化崩壊の反転現象である。
表層脳価値に縛られた者にとっては築き上げた楼閣の崩壊であろう。
だが 眼(まなこ)を観開き数千年の誤謬を量子演算すれば
それらは崩壊ではなく
自然量子網(クライン環)が潜在層から約束通り甦る
大正転の起動現象であることが判るだろう。
如何に真理であっても 表層脳平面で処理しようとすれば複雑化(難解化)し 過
去既成概念主導では手に負えなくなる。そうなる因果が次元構造上の性質としてあ
るのである。大自然に生まれ生かされている人類がその生存意義を識るためには原
初からの次元構造に副って本質構造を理解しなければならない。
そのための大きなヒントが『自然クライン環』なのである。三次元を計測するだけ
なら三次元座標で事足りる。しかし 三次元を本質理解に導こうとするならば四次
元観座からの波長情報に教えを乞う以外になかろう。三~四次元を統合的に理解し
ようとするならば五次元観座を想定して謙虚に真摯に大自然に対峙しなければ何も
始まらないのである。
地球人は高次元対象に対して十把一絡げに表層脳平面での対応に終始したために眞
實を見喪ってしまった。それゆえ眞の神も偽の神も観分けが付かなくなってしまっ
た。眞の神の代行存在としての資質を自ら手放してしまったのである。出来得るな
らば これまでの神不幸を猛省し眞の神に愛される地球『人』として新たに出直し
たいものである。
このブログの原型はすでに幼少期にあった。もちろん文章を書いていた訳ではな
い。何かの折に印象に残った閃きが忘れられず幼いなりにその記憶印象を積層させ
ていたのだ。義務教育を受ける中で文章化してその遺した文章内容を再度客観的に
反芻するというシステムを自分なりに会得し概念掌握に役立てて来た。
だから 自分の中では対象を文章化する行動は生活に組み込まれた意識行動システ
ムといえる。画家が絵を描き詩人が詩を書くように いわゆる芸術家が創作活動を
する一連の過程とそれほどの差異はないだろうと考える。違うとすれば 創作活動
の過程にすら深意識分析を仕掛けてしまったことであろう。
簡単に言えば 地球の表層脳文化範疇であれば表層蓄積だけで平面文化を刈り取っ
て行けたものを 既成の堆積層に疑義を向けてしまったがために私個人の脱(超越
的)創作活動は苦難の連続であった。それはそうであろう。既成概念世界に対して
反既成概念観を奥に潜めて対峙することになってしまったからである。
しかし 何が幸いするか分からない。私の場合ではそれらの強大な苦難が次元の強
靭なる乖離被膜を原初意識退行(実は未来進行)という形で自己意識的には除去出
来たかと思われるからである。この顕潜両意識統合体験を以って『自然クライン
環』という自然神から地球人個々への偉大なギフトに光が当たり始めたのである。
地球人は 特に現代人は表層脳平面に依存し過ぎて それが為に原初本質の魂の起
源を見喪っている。折角 量子力学まで組み立てて成果を一旦押し上げたが その
先のまさに自然量子クライン環の解明が出来ないでいる。
平面知の解は平面地上では整合性を保てるけれど ひとたび霊質次元に飛び込んだ
ら何の手出しも出来ない。波長の変化は化学変化とは本質的に異なる。次元基板の
性質が見える世界と見えない次元では比較など元から不可能なのだ。
では どうする? ここからが大事だ。平面知であろうと高次元知であろうとそん
なものはどうでもいい。神であろうと悪魔であろうとさらにどうでもよいのだ。己
の中のクライン環構造を自覚し発動する!眞の量子跳躍を自らが示すのだ。
一年前の言葉であるが 単なる言葉の羅列として見るのではなく その時の瞬間の
波長形状の状態など観るところが違うのである。そのために『備忘録』を敢えて遺
すのであるし単に言葉を記録するのではなく その時の自然量子共振イメージを託
す言葉を吟味しているのである。
それらの深層探求の意識努力はその瞬間も輝くのだが 後になってもそれらの自然
クライン環の共振が瞬時に蘇るのである。
本当にこの波長層世界は時空を超えて生きている。