「歴史的現実においては理想はなく、ただ事実があるだけである。理由もなく、正義もなく、最終目的もない。あるものはただ事実だけである。このことを把握しないものは、政治について書物を書くがいい、しかし政治をしてはならない」。これがシュペングラーの一番有名な言葉かも。だがこれは、ショーペンハウアーの「歴史に哲学などない」、を連想させる。
ショーペンハウアーからの影響は、大きい。たとえば・・・・・・。
この本の半分は、古代のギリシア文化と現代の西洋文化はまったく違うものだという主張で占められている。シュペングラーによると、ギリシア文化は「個物志向」なのだという。何事も、明確な形を保っていなければならない。何事も、ある一線を越えてはならない。彫刻と幾何学がギリシア文化の代表なのだという。
これに対して西洋文化は「無限志向」だ。固定した形に限定されない。数字が大きければ大きいほどいい。空間をどこまでも突き進み、自分の意志で満たす。限りない成長を目指す。音楽の技法である「対位法」と解析学が西洋文化の代表だという。
シュペングラーが西洋文化の特徴だという「無限志向」。これをショーペンハウアーは、「意志と表象としての世界」の中で、人類全般の特徴だと主張している。「表象としての世界」、つまり知性が把握しうる世界の外に、「意志」が存在する。ショーペンハウアーのいう「意志」とは、「神」のようなものだ。人間は「意志」の劣化コピーのようなもので、他者を押しのけて自分の意志をどこまでも貫こうとする。だから人間の世界は争いが絶えないのだ、という。「この世界に生まれてきたこと自体が罪であると同時に、罰でもある。だから人生は、こんなにも苦しいのだ」。スピノザの汎神論をひっくり返したような世界観。「負の汎神論」、とでも呼ぼうか。
「意志」の支配から逃れるには、このような世界のからくりを直観的に把握するしかない、という。ここでショーペンハウアーは、インド思想の解脱の理論をそのまま用いている。
またショーペンハウアーは、音楽を高く評価している。音楽は「意志」の直接の現れなのだという。この点もシュペングラーに似ている。
「ショーペンハウアーはインド思想に関しては素人だ」、などとシュペングラーは書いている。なのに、自分ではインド思想にほとんど触れていないのは、奇妙だ。ショーペンハウアーを批判するのは、彼からの影響を隠したいから、ではないか。「意志と表象としての世界」を読めば、絶版中の「西洋の没落」の少なくとも半分くらいは理解したことになる、かも。