
7月26日市民タイムス
美鈴湖は、その昔「芦の田池」と呼ばれていたため池で歴史は安土桃山時代にさかのぼる。私の住む岡田地区をはじめ水不足に悩んできた周辺地域では水争いが絶えませんでした。昭和16年から県営事業として大規模改修工事が行われ戦争をはさみ昭和26年3月に竣工、当時の林虎雄長野県知事も出席し4月に600人の竣工式が行われました。昭和28年名称募集により現在の美鈴湖となりました。(参照:平成23年度長野県元気づくり支援金事業「先人の生きざま」岡田地区まちづくり委員会発行)
美鈴湖は、スケートのメッカでもあり、私が小学生のころは毎週日曜日に兄と美鈴湖へスケートに通いました。もちろん歩いてです。岡田松岡の自宅から湯道を通って浅間温泉に向かいます。今の八二銀行のあたりに国鉄バスの停車場がありました。そこを横目に見ながら急な坂道を登り始めます。車が通る道路はくねくねと登って行くのですが歩く方は、そこをまっすぐ突っ切るように近道を歩きます。誰が通り始めた道かは知りませんが自然に近道は踏み慣らされてつくられています。
まだ浅間国際スケートセンターができる前で、美鈴湖で滑っていました。一日10円とか20円の時代です。滑走券の代わりにリボンを安全ピンでくくったものを身につけて滑ります。お昼ごろまで滑って、「かーちゃんのおにぎり」とウテナ荘の50円のかけうどんを食べて帰ります。帰路は木の枝をケツの下に敷いて、登ってくる時よりももっと直下降におりるので20分くらいで浅間温泉につきます。懐かしい話です。
その後浅間国際スケートセンターができ、記録製造リンクと言われ当時の世界的な日本のスケーターがここで次々と日本記録を打ち立てました。氷をつくる作業は今の市役所体育課のベテラン職員で凍えるような寒さの深夜から氷づくりが行われていました。施設の老朽化、スケート人口の減少などもあり浅間国際スケートセンターは閉じられました。そこで地元美鈴湖町会や三才山町会の皆さんが美鈴湖を中心に何とか活性化が図れないものかと「コミュニティーあしのた」がつくられ、美鈴湖周辺の整備をはじめ、ニジマスを放流しているというわけです。