昨日、書きたいところまで辿りつけないままに、字数いっぱい・・・・・・長いのは読んでいただく方にご迷惑だから。
そんな訳で続きです。
30年ほど前、実家の父が東京の病院に入院した時、その話相手に義姉と義妹と私が毎日交代で付き添った時でした。
病室のテレビに「カラマツ」のドキュメント番組が流れました。
新緑の薄緑色が、夏の濃い緑になり、黄金色の秋から晩秋の濃い茶色に変わっていく美しい風景を見ていました。
戦前、戦中の荒廃した山に、長野はカラマツが植林されました。
それはまた、失業対策でもありました。
このカラマツ、寒冷地向きだったのですが、この当時は土木用材くらいの用途しかありませんでした。
ナレーションで「お荷物となったカラマツ」の言葉が流れて来た時、私は飛び上がる程びっくりしたのです。
お荷物なんて・・・・・・毎日カラマツと共に生きている私にとって考えられない言葉でした。。
新しい植林にカラマツが選ばれなくなったのです。
そうなると、どうなるか。
つまり若木が供給されなくなってきたのです。
戦後植林された木が間伐材の時期を迎えたのが、昭和50年代です。
それまで国内に十分な木材が無かった時代に、木材を使わない住宅が推奨されましたね。
高度成長時代、列島改造が進んで、国中で土木事業が盛んに行われた頃、ソ連からカラマツが入ってきていました。
海のない長野県でも、新潟や富山、もっと遠くの港から毎日トラツクで運ばれてきました。
そうこうしているうちに、国内の木を間伐しなければならない時期がきても、近くの山の木よりも、海を渡って陸路を走ってきた木の方が価格が安かったのです。
それが、昭和54年か55年の台風で、ガラリと変化したのです。
山の木が全面なぎ倒されたのです。
間伐の時期を通り、中目材の時期、そして伐期を迎えと、その都度、技術が進歩し、カラマツの用途も土木材だけでなく、建築材に広がって行きました。
その流れを赤堀さんはよく書かれています。
北海道の皆さんが、視察にこられたことがありました・・・・・かなり昔です。
長野県のカラマツの苗木を植えられて、製材して販売を考えられていた頃でしょうか。
その時、ツインバンドというワンマンの画期的な機械が出来て、生産能力は格段にあがったのです。
私は「製造することよりも販路拡大の方が問題」と語ったことを思い出します。
まさにカラマツ、ねじれという特性を持っていましたから、製品を長く在庫しておけなかいからです。
長野の悩みはいずれは北海道の悩みになります、とも。
でもひとつ大きな違いがありました。長野は高い山のてっぺんまで植林しましたが、北海道は畑に大根を作るように植林したと聞きました。
長野からたくさんの苗木が東北、北海道に運ばれ苗木で利益をあげたのでしょうが、それがライバルとなり長野の業者は大変でした。
そして先の「お荷物」の頃より、長野県での苗木の製造も極端に少なくなったと思います。
植林されなくなって、ここ何年も細い材木が無くなりました。
大変なんです、これが。
まだまだ本題にたどりつけません。
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