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医療場面でもカウンセリング場面でも基本は面接です。『甘えの構造』で有名な土居健郎氏は上の『方法としての面接』で「面接には権威が必要」と説いています。いくら対等とは言っても、面接者が被面接者になんらかの影響を与えるためには、面接者には「権威」がなくてはならない、というわけです。
医療場面の場合、医者の白衣なり病院の機械なりが「権威」の象徴となるでしょう。「精神分析家は背後に膨大な書物を置く必要がある」という皮肉があります。沢山の書物を後ろにしていると、精神分析家には一定の「権威」があるように見えるからでしょう。
キリスト教の大聖堂や仏教の大伽藍も、聖職者の「権威」を高めるために考え出されたのかもしれません。
そうしたこけ脅しのような「権威」ではなく、日ごろの行動や評判などから「権威」はおのずと滲み出てくるものです。「権威」がない面接者は馬鹿にされるだけで、被面接者に良い影響を与えることができません。ということは、面接者と被面接者は対等ではないということになりますね。この辺りのことがよく間違えられ、人間として対等であることが、面接者と被面接者が対等であるとすり替えて理解されることがあります。
(宝石とか携帯電話とか、専門的な品物を買うときには、若い女子店員でも客より上位にあり、人間としては対等でも、その商品については対等ではありません。)
※今日、気にとまった短歌
新調の畳に座せば群青の紫陽花見えてその先は海 (三重・大紀)北村保