いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

成人のモラトリアム。  moratorium of grown-up

2010-01-11 19:48:45 | 日記
 1月11日。誰もが一律にいわゆる成人とはいかない(moratorium)、初めての
平成生まれの成人の日をむかえた。

 成人とか、成人は大人とか言う時の論理的な基準、根拠はあるはずもなく、昨年
、総選挙目当てで成人年令を20才から18才に引き下げようという論議が表面化
した。
 欧米他世界の主流が成人年令を18才にしていることが理由で、一方、精神医学
の専門からは現状からみて、自立した精神構造を持ちうるのはもっと後年になって
からで、成人年令を引き上げるのが適当という見方もあった。
  
 成人と区切る分岐点(turning point)には、三つの「思惑(intention)」がある。
 ひとつは、(1)抽象的な概念として、成人と意識させて、相当の権利を与えて社
会的自立と責任と大人を自覚させて、社会構造構成員の一翼を担ってもらう。この
場合、成人年令の分岐点、設定は、どの年令でもいい。

 ふたつは、(2)国民の意思、意識、考え方の方向性、大多数の総意のエビデンス
(evidence)の対象として、人口比率の統計上の割合としての便宜上の年令の分岐
点。主なものとしては、参政権がある。
 国民総人口の4/5と1/5を分岐点として、総意の対象者の80%の内、最低
半分が反応を示すことを想定しても40%の反応確定率が確保できて、対象以外者
20%の2倍の大多数の総意を反映できることになる。
 この場合は、対象以外者が20%と推定して、まあ、20才以上を成人年令とし
て設定していいことにはなる。

 三つ目が、(3)権利の自主的、自立的、自律的行使の年令分岐点。契約、取引き
、商行為、婚姻、酒、たばこ、保険加入が主なもの。

 現在の成人年令20才。すでに仕事に従事して一定の収入を得て自立している者
もいれば、学生として親の援助を受けている者をはじめとして、扶養されている者
もいる。
 20才年令の分岐点を見ても、すでに20才を超えて成人として自立している者
と「同等の生活自立者」もいれば、20才未満の親の「扶養、後見を受けている者と
同等」の者もいて、論理的に見れば一律に成人と認識できない環境が歴然としてあ
る。

 そういう普遍的な環境を「実態」に近づける、不合理を「解消」しようとすれば
、成人年令を現在よりは下方に下げて、義務教育終了後の16才に近づけて設定す
る方法論はある。

 そうすると、「成人」という名称がすでにそぐわないし、成人を大人とする論理
もそぐわなくなる。
 だから、国、地方が成人年令をセレモニーで祝うというような「空疎(中身がな
く実体がない)」なことは、意味がないことになる。
 成人の分岐点は、一律とはいかないところに、20才成人の不可思議がある。

 実質影響力のある上記の三つ目の思惑(intention)としてあげた、権利の自主
的、自立的、自律的行使については、財政上、健康管理上の影響も大きいエレメン
トもあるので、 (4)扶養し、後見する「親」が判断する一定年令までは責任(後見)
を持つことで、いわゆる成人年令を下げること、 (5)成人という名称を使用しない
〔名称は何でもいい。「~法で定めた権利取得者(公権人)」とか、長ったらしくとも)
こと、 (6)国、地方のセレモニーは廃止すること、とするのでいいのではないか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする