いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

裁判員制度の合憲論。 constitutinal agreement theory

2011-11-17 19:41:48 | 日記
 (1)人が人を裁くこと自体が不条理であることは自明であるが、それでは増え続ける犯罪をどう裁き国民の生命、安全、平和、生活を守るのかということになる。
 日本は法治国家であるから、憲法、刑法、刑訴法にもとづき「裁判所」で審議の上、判決により犯罪刑が確定する。

 裁判所の構成は、国家試験(司法試験)合格者が研修制度を経て(卒業合格)裁判官として採用される。09年からは、国会承認で国民から無作為に選ばれた裁判員が裁判にかかわる裁判員制度(citizen judge system)が導入された。

 人が人を裁く不条理はあっても、一応国家有資格者(裁判官)の高い専門性見識、法知識・解釈能力所有者による精度の高い「判断基準」の「共有性」が保障されていた。
 そこに市民感覚(人の「情」とか「つながり」とか「生活感」とか「人間味」という観念)を加味したあたらしい判断を裁判制度に取り入れた。
 市民革命、市民運動による国家樹立という歴史(シビリアンコントロール)を基本に持つ欧米社会では、広く取り入れられている裁判制度だ。人が人を裁く不条理から、欧米では「死刑廃止論」も多いのが特徴だ。

 (2)この裁判員制度が、係争中の容疑者の上告により憲法に違反しているかどうかの判決が最高裁で出された。人を裁くということは、裁かれる側にとっては「将来」を適法に妥当性を持って拘束され、自由を制限される「不自由性」を理由付けられることだ。

 「一般人」が犯罪容疑者を「裁く」ことが憲法で保障するいかなるすべての人権保障をも守ることになるのか、人が人を裁く不条理を裁く問題である。
 最高裁は「裁判所での法と証拠にもとづく適正な裁判は保障されている」(報道)とこれを合憲と判断した。

 裁判員制度は、無作為に選ばれた国民と裁判官の合議制で、「判決」には必ず所定人数の裁判官の同意が必要となっており、概念、建前論としては上記の最高裁の判断は妥当性のあるものだ。

 (3)問題は、裁判官のみの従前の専門性スタンスの裁判でも「適正」な判断が必ずしもそのとおり保障されていない実情(再審無罪・検察不正)もあり、「一般人」の「参加」による裁判の判断、法解釈の「精度」の密度という裁かれる側からの人権保障(侵害)レベル問題だ。
 専門家の一部からも、裁判の「公平性」の是非に違憲論も出ている。また、行政(国会承認制度)による司法への介入という問題もある。

 (4)一般人が一時期に人の将来を自由を拘束する重大性にはストレスも多く、特殊な専門性の高い教育、訓練、経験の必要な分野である。
 裁判参加への一般人の精神的負担、負荷を考えれば、高い専門性ほかのある裁判官にまかせるのが順当で(そのための法曹人増員政策)、一般人は検察審査会参加によるチェック機能の役割が司法参加には適当だ。

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