いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

私的な財津和夫論。(第28回) private essay about k. zaitsu

2011-11-13 19:04:52 | 日記
 「私的な財津和夫論」の第28回は、「日本からアメリカへ」です。
 28 日本からアメリカへ。
 財津和夫さんは、1971年暮れに自ら作詞・作曲したバンド活動をしていたチューリップの作品楽曲としての「魔法の黄色い靴」のデモテープを一本持って、福岡からひとり上京して当時ビートルズの日本でのレコード販売を手掛けていた東芝EMIレコードに向かった。
 ミュージシャン財津和夫さんがチューリップとして自らの音楽と時代をきりひらいていった共感すべきフロンティア(frontier)な「生き方」の始まりだった。
 当時の世相、社会情勢、距離感、文化圏から財津さんはこの上京を「日本からアメリカへ行くようなもの」だったと話している。

 ビートルズに強い影響(inspire)を受けて本格的に音楽活動を始めた財津さんが18年間のチューリップ活動の中で作曲活動も含めてアメリカ進出の「野望」、願望はなかったのか興味あるところだ。
 すでに1971年に「日本からアメリカへ行くようなもの」のフロンティアな挑戦をしていた財津さんだった。
 日本のポップスのコンポーザー(composer)、ミュージシャン、そしてプロデューサーの中では、音楽性、斬新性、創造性、フロンティアスピリットから財津和夫さんが最も可能性、資質を持ったコンポーザー、ミュージシャンであると確信している。

 1976年にはアルバム「all because of you guys」でビートルズナンバーのカバーアルバムを当然のように英語バージョンで発表している。このアルバムはピーター・バラカンさんの指導により財津さんはネイティブな英語発音で、さらに天性のよく伸びるハイトーンボイス、ハーモニーで日本人としては「出色」のビートルズカバーアルバムとなった。

 さらに1982年に発表した財津音楽、チューリップサウンドとしては金字塔とも言うべき高い業績を示すアルバム「2222年ピクニック」の中では、大作の「生まれる星」(6分13秒)、「アルバトロス」(7分37秒)での日本人感性にはない異文化、多様性でトロピカル(tropical)、ワールドワイド(world wide)なサウンド志向は、日本音楽市場には納まらない財津音楽の斬新で多様な創造可能性を伺えるに十分な楽曲群である。

 財津さんの正しく舌を巻くネイティブな英語発音は、音楽に対する妥協を許さない真面目で本格志向の取り組み姿勢とともにアメリカ進出をも視野に入れた意欲でもあったのではないのかと思う。
 1979年にはチューリップ8大都市コンサートでハワイ・ホノルルでもコンサートを開催している。これがチューリップオリジナルメンバーでの最後のコンサートとなったが、アメリカ進出の試金石とでもいえるものであったのではないのかと今は思う。

 アメリカは文化、音楽、経済レベル「すべて」を受け入れる自由主義の国ではあるが、パラドックス(paradox)として「すべて」が存在する自由競争の国でもある。
 現在までも多くの音楽ジャンルを問わない日本人ミュージシャン、音楽家がアメリカ進出に挑戦して、ポップスではなかなか成果、業績、評価を受けるまでに到っていない現実だ。
 近年では、B'zのギタリスト松本孝弘さんがアメリカミュージシャンとのコラボのインストルメンタルでグラミー賞を受賞して、機運は芽生えつつもある。

 アメリカ進出となると、業界あげての物心両面での厚いサポートは必需で、高いリスクもともなう。簡単に決断できるものではないが、名プロデューサー(チューリップ誕生)でもある財津さんにはその「野望」はあったのではないのかと思う。

 財津音楽、チューリップサウンドがアメリカ音楽界にサウンド・エコー(sound echo)する日があったならと、今はそのすばらしいサウンド・シーンを思い浮かべている。
 財津音楽、サウンドには、その潜在力、フロンティア性は十分にあったと思う。それはひょっとして、これからのコンポーザーとしての財津和夫さんの視界にはあるのかもしれないのだ。ビートルズが今まだ音楽活動をやっていたら、こんな音楽をやるだろうと言うイメージはある。
                              〔転載禁止です〕
 

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