いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

届いていない願い。 unattainable prayer

2014-08-12 20:16:34 | 日記
 (1)今年も8月6日広島と9日長崎の原爆の日を迎えた。祈念式典の平和宣言(a peace declaration)では、広島では政府が閣議決定した「集団的自衛権」の行使容認については触れずに、長崎では取り上げることが草案決定で報じられていた。

 ともに同式典に出席した安倍首相に対して、同日に会った被ばく者団体からは集団的自衛権の行使容認の閣議決定の取り消し、撤回を求める意見(および意見書)が出された。
 世界で唯一の戦争被ばく国の戦争被害者として、世界平和実現に向けた切なる思いは強いはずだ。被ばく者のこの強い思い、願いを長崎市長とともに広島市長にも斟酌(しんしゃく)して平和宣言に盛り込むべきであった。

 (2)そこで長崎市長の平和宣言で集団的自衛権の行使容認問題がどう取り扱われているのか関心が深かった。
 翌日(10日)の報道で長崎市長の長崎平和宣言の全文が掲載されて、関心深く読んでみたが、なにしろ足早の一読ではなかなか見いだせない、見つけれない内容で正直がっかりした。

 宣言文の中盤後半部分に〔いまわが国では、「集団的自衛権」の議論を機に「平和国家」としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされています。〕
 さらに続けて〔~日本国憲法に込められた「戦争をしない」という誓いは、被ばく国日本の原点である〕と述べている。

 (3)同草案決定での集団的自衛権問題に言及するという前触れの期待からは、随分とおとなしい、遠慮がちな内容だったのだ。
 同宣言文で憲法問題を取り上げてもいるのだから、集団的自衛権の行使容認による自衛隊の戦闘地域への派遣と憲法規定上の比較問題として、また平和を武力や戦力で抑圧的に勝ち取るのではない、国際平和主義、平和思想、核廃絶主義として率先して国際社会をリードする政治主義として、どれもが積極的でない政府に注文すべきであった。

 (4)それが同日に安倍首相と会った被ばく者団体が首相に集団的自衛権の行使容認の閣議決定取り消し、撤回を求めた強い思いであったはずだ。
 前触れの期待感からは随分とおとなしい、物足りない内容でがっかりした。これでは宣言文に集団的自衛権の文言が入っているだけでのことで、被ばく者団体が安倍首相に突きつけた平和追求の意義、意味、内容に迫るものとはとても言えないものだ。

 (5)ところが「この」程度のものに、自民党議員が噛みついた。「平和を維持するための政治的選択について語りたいなら、市長を辞職して国政に出ることだ」と自身のブログで批判した。長崎市長としての言動に「権威が下がる」とまで言い切った。

 国会議員が長崎市長の政治信条、言論を規制し、自由な発言を規制しようという極めて程度の悪い非常識な発言であった。
 むしろそういった批判を考慮しての宣言文のどこに含まれているのかも見つけにくい、極めておとなしい、物足りない内容であったのにだ。

 (6)伝えられているような同日の安倍首相の被ばく者団体代表への不親切な対応発言(首相発言の「見解の相違ですね」-報道)も含めて、内閣、自民党のもともと国民の声を理解しようとしない、無視する一強時代の思い上がりによる横暴さのあらわれだ。

 日本国憲法は言論の自由、思想信条の自由が保障されている民主主義国家だ。まるで市長と国会議員を区別して政治理念、信条を差別化(distinctive)するような発言(市長を辞めて国政に出ることだ)はとても認められるものではない。
 憲法改正を回避する安倍政権こそが民主主義、立憲主義に背くものだ。

 (7)政治は政治家だけのものとでも思い上がっているのか。主権者である小市民的国民までもがなめられている。
 広島、長崎原爆の日は69回目を迎えた。随分月日が経過した。被ばく者の想い、願いは届いているのか(unattainable prayer)。

 もっと率直に世界平和、核廃絶に向けたインパクト(impact)のある平和宣言でその思い、願いに答えるべきだ。

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