今日朝刊の社会面には 「学校にSOS届かず」 との三段抜きの見出しで岩手県矢巾町で5日、中学二年の男子生徒が死亡した関連記事が載っていた
この記事を見て、生徒と教師の関係とはこのようなものかと唖然とした
生徒がクラス担任と交わしていた 「生活記録ノート」 には別の生徒からの暴力や体調不良を繰り返し訴える書き込みがあったが校内ではその情報が共有されていないのは何故だったのだろうか?
生徒の書き込みに対してクラス担任のコメントは、生徒が悩む世界を理解せず、全く的外れの内容だったのも驚きであった
生徒は 「生活記録ノート」 に書くことによってSOSを発信したが、担任のアンテナは受信周波数が生徒とは違っていたようだから、その苦悩を確かめることもなく、生徒を死に追いやってしまった
最も身近にいる相談相手であるはずのクラス担任が ”味方でない” と、感じたこの生徒の悲しみがこの記事でも伝わってくるようだ
このような事件が起きると必ず ”大人は何も出来なかったのか?” との反省が議論されるが、もうその言葉も聞き飽きてしまった
私も中学二年生の時、激しい苛めを毎日受けたが、私はただひたすらその時間が過ぎることを願っていた
ただ今は苛めを受けるとやがて 「死」 を考えるようだが、当時の私は 「死」 を考えたことは一度も無かった
学校から帰れば母子家庭だが温かみもあって、母もいる。それでその日の苛めを忘れることができた。当時はまだそんな時代だった
だがその苛めの影響は私の人生の中で大きな影を落としたことは確かだった
今でもその苛めた同級生三人を許す気はない。貧しかった私と違って、親が金物屋、魚屋、そして八百屋の自営業だった彼らは金持ちの息子として、意気がって私たちを見下していた
その苛めも時と共に自然消滅したことは有難かったが、私にとっては忘れられない出来事だった
亡くなった中学二年の男子生徒の心情は苦しかったに違いない
何故、その苦しみを少しでも和らげることができなかったのであろうか?
本当に 「大人は何も出来なかったのか?」 と、クラス担任も校長もそして学校全体も事実を真摯に受け止めて再発防止に努めるべきである
亡くなった男子生徒さんのご冥福をお祈りします
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