新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

秋の黒川(横手)のイチョウ並木②

2024-11-07 22:30:02 | 観光地

本日は札幌で平年より6日早く10cmほど積雪が見られ、北海道では里にも雪が降り始めたようです。こちら秋田でも玉川温泉で積雪とのニュースで、着実に冬が接近。

未明に雨が降っていて怪しかったのですが、午前中にわずかながら青空が出る気配がありましたので、先日訪ねた黒川のイチョウ並木を再び見に行きました。浄水場正門より北側の並木にはまだ葉に緑が残っていて時期尚早の感じ、南側は紅葉はかなり進んでいい感じの黄色になっていました。

でもまだ落ち葉にはなっておらず、下の通路は落ち葉で埋まって黄色に染まるまでには至っていませんでした。落ち葉で黄色く染まるまで、もう一週間ほどでしょうか、来週あたりが見頃になりそうです。また空が今日は曇ったり、晴れ間が出たりと忙しい状態でしたが、やはり絵になるのは青空の下でした。

帰り際、北側の空にきれいな虹がかかり、一眼レフの広角レンズを使えば、イチョウ並木と虹となったのでしょうが、安価なスマホで最低限の使い方しかできない人間には限界がありました。

時々一時

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食用菊(黄)の初収穫、1回目

2024-11-06 22:26:33 | 畑・工作

昨日は夕方から雨の予報となっていましたので、お客様出発後、午前中の早い時間に黄色の食用菊の1回目の収穫を行いました。紫色同様、採れる量が今年は非常に少なかったので、収穫作業は30分ほどで終了。その後解体、茹で、包装と3時間弱の作業で完了となりましたが、その量は100食分に程遠い量でしかなく、来春まで足りるかどうか。

時期的に次の黄色の食用菊の収穫ができるかどうか微妙なタイミングになってきました。寒くなると開花する傾向で、その気温低下が遅くなり、収穫のタイミングが短くなってきたようですので、来年の植え付けでは少し植え付ける量を増やして、ある程度量を確保するためには短期間に一気に収穫してやる必要がありそうです。今年までは黄色も紫色も1畝半ずつ作っていましたので、来春にはそれぞれ2畝分必要かもしれませんが、果たして来春、株分けをしてそれだけの株を確保できるかどうかも問題です。

食材としての食用菊が足りなくなったことは過去にもありましたが、来年にはこれを補うメニューを再び考える必要があります。何になるかはその時のお楽しみに。気候、値段、確保できる量などの問題から、今のところ何になるかまだ分からない状態です。

のち

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冬の通行止め始まる

2024-11-05 22:22:28 | 季節

毎年文化の日前後の連休が過ぎると、秋田県内の山岳部の観光道路の冬季通行止めが始まります。今年は栗駒、鳥海方面は本日より、八幡平はすでに夜間の通行規制が行われていますが、八幡平アスピーテライン(蒸の湯~山頂)は本日から、玉川温泉を通る国道341号も夜間通行規制が8日から始まります。

先日も書きましたが、多くの山岳ルートはう回路がとても遠くになり、栗駒山越えのルートは北上経由か鳴子・湯沢ルートとなりますし、八幡平方面では盛岡経由か、県北から森吉経由の国道105号ルートとなり、数時間余計に時間がかかることとなりますので、余裕を持って計画を立てることをお勧めしますし、前日か当日に道路状況を再度確認してください。

さて、ハロウィーンが終わって11月になったら、こちらでは街のスーパーでは早くも鏡餅の販売が始まっていました。

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胆沢ツアー ⑦鳥海柵・平安末期(1050年頃)

2024-11-04 22:16:46 | 秋田古代史

先日の胆沢ツアーでは角塚古墳を見て、そのまま国道397号で東成瀬村に抜けようと思いましたが、日没まで少し時間があったことと、せっかく奥州市まで来て、一か所残すのはなんだし、次にいつ来られるかわからないので、国道4号まで戻る形で走り、奥州市と金ヶ崎町の境にある鳥海(とのみ)柵の見学をしました。

以前、温泉巡りで脇を通ることはありましたが、立ち寄るのは初めて。ここは「柵」となっていますが、大仙市にある払田柵やこの前に見た胆沢城(柵)といった奈良・平安時代に律令政府が蝦夷対策として構築した柵とは異なり、平安後期に奥六郡(概ね今の岩手県)を実質支配していた蝦夷の一族、安倍氏が作った北上川流域12柵の一つ。

国道4号から入ってすぐのところに門があり、その場所は学校でもあったかの開けた場所で駐車場もありました。あとで調べたら、繊維工場とやはり小学校があったとのこと。ただ、その痕跡はほとんど見られず、入り口近くに案内看板があるだけでした。これによると東北道の側道奥にもう一つ案内看板があるということなのでそちらに向かいました。側道に入ってすぐから車1台分あるかどうかの農道。案内看板近くに車を方向転換できる場所があるかどうか心配でした。案内看板近くに車1台分ほどのスペースがあり、切り返しOK。ここに車を止めて、先ほど見た広場から大きな谷の反対側、畑のあぜ道の奥に鳥海柵跡の看板がありました。本来ならここから胆沢城が見えるのでしょうが、木が邪魔になり見えず。

日没近かったので、これで鳥海柵の見学は終了となりました。ここも背景を知らないと何もない場所状態でした。

=安倍一族と前九年の戦い=

安倍氏が在地官人(国司が採用した現地役人)として、胆沢城を本拠地としていたため、すぐ近くにあった鳥海柵は安倍一族にとって重要拠点であったとみられます。この柵の主は安倍氏当主頼良(頼時)の三男、安倍宗任とされ、宗任は別名鳥海三郎と呼ばれていた。

先の胆沢城で書いた38年戦争の終結以降、律令政府の武力による蝦夷の制圧は、中央(京都)から派遣する部隊から、現地の勢力を利用することに方針転換され、蝦夷の中から在地官人になったりする「豪族」が現れるようになった。ここ奥六郡を本拠とした安倍氏と、仙北(秋田)を本拠とする清原氏であったという(諸説あり)。

安倍氏は奥六郡で一族による支配を強め、領地拡大(衣川方面)や徴税義務の不履行といった中央政府に反抗する態度を強めた。1050年(永承5)に陸奥国司だった藤原登任と鬼切部(現鳴子町鬼首か?)で戦いとなり、安倍氏が勝利した。

これを受けて中央政府は翌1051年陸奥守(国司)に源頼義が任じられ、一時は戦いが収まったものの、1056年(天喜4)、婚姻関係のもつれから阿久利川付近で戦いになった。安倍頼時(頼良)の反乱と断じた中央政府は源頼義に安倍氏追討の命を出し、調略や裏切りなどで鳥海柵で頼時戦死。子の安倍貞任は征討軍を黄海(岩手県一関市藤沢村)の戦いで破った。

これに対して政治的に孤立した源頼義は、仙北を本拠としていた地方豪族、清原氏に助けを求め、1062年(康平5)に清原氏による一万余りの援軍が出陣、小松柵から衣川関、鳥海柵、黒沢尻(北上市)柵と安倍氏の拠点を次々と攻め落とし、最後の拠点であった厨川(盛岡市)柵の陥落で貞任が戦死し、(前九年の)戦いが集結。

この戦いにより、源頼義、義家(頼義の子)が冠位を与えられ、清原武則も俘囚(蝦夷)の族長にもかかわらず冠位が授けられ、鎮守府将軍に任じられた。一方安倍宗任ほかの安倍氏生き残りは伊予や大宰府へ流刑となり、安倍氏滅亡に至った。

こうして前九年の戦いは、1051年源頼義の奥州赴任から1062年安倍氏滅亡の12年を指すが、前九年の役と呼ばれるのは、頼義の本格参戦(1053年の鎮守府将軍任命)から9年で終結となったことによる(諸説あり)。また安倍晋三元首相は、この安倍宗任が先祖として、墓参(福岡県宗像市大島)を行っている。

のち

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続く車のトラブル

2024-11-03 22:14:44 | 季節

今日はお客様で夕食後、温泉に向かう途中に濃い霧で路肩がよく見えず、縁石に乗り上げてパンクしたというお客様が出てしまいました。先月は当YHの前で脱輪、レッカーとなりましたので、近いうちに厄払いにでも行きましょうか。前回も今回も怪我なく、被害は車だけで終わったのは不幸中の幸いでした。

さて、今の車は、予備のタイヤを積んでいることはほとんどなく、良くてパンク修理剤程度。レッカーを呼んで、夜遅くとのことでとりあえずレッカーの事務所まで運んでもらい、明日どうするか考えるとなりました。

選択肢としては、近くの車関連ショップで夏タイヤを1本買うか、ある程度の所まで追加料金覚悟でレッカー移動してもらうか、などとなるようですが、夜あたったところ、時期的に夏タイヤの在庫はないとのことで、難しい選択になりそうです。

楽しい旅行でも、車のトラブルなどがあると一転して嫌な思い出になりかねませんし、まして怪我などしたら二度と秋田に来ようなどと思わなくなるでしょうから、くれぐれも気を付けてお越しください。

時々

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胆沢ツアー ⑥角塚古墳は最北の前方後円墳 古墳時代(475年頃?)

2024-11-02 22:07:08 | 秋田古代史

先日の胆沢ツアーでは、巣伏公園(古戦場)のあとは、奥州市の西に移動して、本州最北限の前方後円墳、角塚古墳に。市内から東成瀬に向かう国道397号の沿いにありました。国道の北側に古墳公園というのがあり、そこに古墳があるのかと思えば、古墳自体は国道の南側。それでも公園内に駐車場があり、池やハニワが置かれたスペースもありました。

パンフレットによると、5世紀後半(450-475年頃)に作られた、岩手県で唯一、本州最北限の前方後円墳として1985年(昭和60)に国指定史跡になったとのこと。全長13m、墳高4.3mで堀を廻らせ、円筒埴輪などで飾った典型的なものだとのこと。

古墳や埴輪自体にはあまり興味はありませんが、この古墳の存在意味には深い興味がわきます。ここに埋葬されていた人が誰で、どんな地位だったかなどは一切不明。周辺はのちの600年頃以降には「蝦夷」の領地としての中心地になった場所。ここにそれ以前、関西を中心としたヤマト王権に縁があるような人がいたことが、ここに前方後円墳があることで容易に想像されると。

ここより北にも古墳と呼ばれるものはいくつか残ってますが、北上にある江釣子古墳群などは、小さな石積みのもので、円墳や前方後円墳といった馴染みのある古墳とは大きく異なり、同じ文化圏の人が作ったとは考えにくいものでした。

蝦夷と中央政府との歴史では、古代初期には武力で従わせるより、対話に応じた蝦夷には、饗宴をも要したり、冠位を与えたりという友好的な関係が主だったという説もあるようですので、この角塚古墳の主もそうした関係の初期にあったのかもしれません。

またこの古墳のすぐ近くで発掘された古代遺跡では、大阪府で作られた(と見られる)須恵器や宮城県産の黒曜石、琥珀などが出土しており、この地域が南北物流の拠点だったという見方もあるようです。

そうした傍証として残された古墳ですが、ここも何も知らないで行くとあまり面白さは感じにくいかと思います。

時々

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11月のイベント

2024-11-01 22:38:21 | 季節

秋祭りの10月も終わり、冬支度の11月になりました。例年では11月上旬に初霜、15~20日頃に里で初雪となりますが、果たして今年はどうなることやら。紅葉の進行が10日ほど遅れ気味ですので、初霜、初雪もそうなるのでしょうか。

10月にそこここで秋祭りがありましたし、冬支度で忙しいためか、11月は例年イベントが少なくなります。秋田県内最大の農業のイベントである秋田県種苗交換会が今年は1~5日に今年は鹿角市で開催されます。7日(土)には横手で霜月神楽(国無形文化財)が行われますが、その頃から山岳部道路の冬季通行止めが始まります。中旬には隣の山形県で新そば祭りがありますが、その頃には車も冬タイヤ装備が必須になりそうです。

また早いところでは今月中からクリスマス、年末のイルミネーションの点灯が始まりますが、都会や仙台のように賑やかで知名度の高いイルミネーションではなく、地元で少し知られた状態のものですので、それを目的で見に行くというより、その時間に近くに行くなら、といった感じのものになります。

昨日の買い出しの際に、除雪車が運ばれてきていました。周辺でも冬の準備が着実に進んでいるようです。

のち

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