東京電力福島第1原発事故に伴う帰還困難区域のうち、特定復興再生拠点区域(復興拠点)となった福島県葛尾村野行(のゆき)地区は12日、避難指示解除から半年を迎えた。原発事故前から登録していた住民の帰還は1人で、自宅を建て直して避難先と行き来する「2地域居住」をする住民もわずかにとどまっている。登録上の住民は30世帯80人(1日現在)いるが、原発事故から11年という時の経過が帰還を難しくしている。
野行地区で生まれ育った農家、大山昭治さん(85)は9月に自宅を再建した。県道沿いにある木造平屋建てで、10月には原発事故後、初めて一夜を過ごした。「県道を走る車の音に安心した。車が通るということは、誰かが行き来しているということ。日中でさえ1台も通らなかった時もあったから。
自宅のある場所は明治時代に先祖が開拓し、原発事故前は約1ヘクタールの田んぼでコメを作っていた。妻(84)とはキュウリやナス、ハクサイなどを一緒に育て、食卓に並べた。
福島第1原発1号機の原子炉建屋が水素爆発した2011年3月12日には、同県浪江町から避難してきた弟家族ら7人を自宅に泊めたが、すぐに自らも避難者に。村が用意したバスに乗り込み、福島市や同県の会津坂下町、柳津町を転々とした。三春町の仮設住宅に入ったころには、事故から4カ月ほどたっていた。
自ら建てた築35年の家は、年3回ほど墓参するたびに立ち寄った。震災で瓦一つ落ちなかった自慢の家だったが、13年春に来た時には勝手口の扉が動物に破られ、室内は倒れた家具や食器、動物のふんが散乱していた。自宅周辺が帰還困難区域に指定されたのは、その頃だった。頭が真っ白になった。「人が住んでいれば、こんな無残な状態になっていなかったのに……」。悔しさがこみ上げた。
自宅の避難指示解除のめどが立っていなかった17年、当時避難していた同県田村市船引町に家を建てた。国は18年に自宅周辺を復興拠点として除染を進める計画を発表したが、「家を建てて生活する考えはさらさらなかった。あまりにも遅すぎた」と帰還を諦めた。事故前から足が悪く、軽度の身体障害者と認定されていた妻は、長引く避難生活で容体が悪化した。自らも80代になり、何度も体調を崩した。野行に病院がないことは、帰還を諦めるには十分すぎる理由だった。
今では月半分を野行で過ごす。日中は草刈りにいそしみ、休憩時間には趣味の音楽を聴いて過ごす。「人がいないさみしさを感じている時間なんてない」と充実感をにじませる。所有する農地や山林の利活用には頭を抱えるが、2地域居住を続けるつもりだ。「暖かくなれば女房も連れてきて、緑の芝やサツキの花を庭に植えたい」と春を待ち望む。【肥沼直寛】