温泉クンの旅日記

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青函連絡船記念館 摩周丸(2)

2021-10-24 | ぶらり・フォト・エッセイ
<青函連絡船記念館 摩周丸(2)>

 青函連絡船は、青函トンネルが開業するまでの間、つまり明治四十一年(1908年)から昭和六十三年(1988年)という八十年の長きに渡り、青森駅から函館駅とを結ぶ鉄道連絡船であった。

 

 

 摩周丸は、青函連絡船最後の日である昭和六十三年(1988年)三月十三日まで運航していた船で、実際の乗り場であった旧函館第二岸壁に、船首を函館山、船尾を函館駅に向けて係留されている。
 なお、展示されている摩周丸は二代目で、その二十二年九カ月の就航期間に約三万五千五百回運航し、その距離は地球百周分の約四百万キロメートルに達するというから驚きだ。

 

 

 わたしにとって青函連絡船といえば、テレビで観た水上勉の推理小説を原作にした映画「飢餓海峡」の鮮烈な記憶があった。だから、かなり前から興味はとてもあったのだ。

 

「昭和二十二年、青函連絡船沈没事故と北海道岩内での大規模火災が同時に起きる。火災の原因は質屋の店主を殺害し金品を奪った犯人による証拠隠滅を図った放火と判明する。
 そして転覆した青函連絡船からは二人の身元不明死体が見つかった。それは質屋に押し入った三人組強盗のうちの二人であることが分かる。函館警察の弓坂刑事は、事件の夜に姿を消した犬飼多吉という男を追って下北半島へ赴く。」

 

 主人公を三國連太郎、追い詰める刑事を伴淳三郎と高倉健が演じ、1965年に制作された東映の映画で放映時間がカット版でも2時間 47分(完全版は3時間3分)とかなり長いが飽きさせない。

 

 青函連絡船は戦争による空襲も毎年襲う台風も乗り越えて、本州と北海道を結ぶ大動脈として最盛期のころ、昭和四十七年(1972年)には一日最大三十往復もの運航本数であった。
 旅客数も昭和四十八年(1973年)の約四百九十九万人をピークに減少傾向に転じ、昭和五十一年には四百万人台を割り、昭和五十二年には三百十四万人に急減、最末期には二百万人にまで落ち込んだ。

 

 昭和29年(1954年)9月、台風15号は九州・中国地方を上陸通過すると、日本海へ抜けた後に更に発達しながら北上し、北海道に接近した頃に最盛期を迎えて猛烈な暴風による被害をもたらした。このとき摩周丸(初代)は、検査工事のために神奈川県の浦賀ドックに入っていたため、被害に遭わずにすんだのであった。

 

 函館港沖では洞爺丸事故を、フェーン現象で岩内町では3,300戸を焼失させる岩内大火を引き起こすなど、いわゆる「風台風」で、強風による被害で多数の犠牲者を出した。
 洞爺丸事故では1,139名の犠牲者が出て、「タイタニック号」、「サルタナ号」の事故に次ぎ、戦争による撃沈を除けば世界海難史上3番目の犠牲者数であった。なお、洞爺丸以外にも青函連絡船の4隻が沈没し、多数の犠牲者を出している。

 

 

 この事故をきっかけとして、本州と北海道を地続きにする「青函トンネル」構想が急速に具体化されることになっていく。
 気象庁は、この甚大な被害をもたらした1954年の台風15号について「洞爺丸台風」と命名した。

 

 三階にあるサロンは、無料で利用できる休憩所である。
 その一角には、船長服と淡いブルーのマリンガールの制服が用意されていて自由に着て記念撮影できる。

 

 ゴールドのラインが入った紺色の濃いブルーの船長服と制帽で船長気分になれるし、女性には水色のマリンガールの制服もいいだろう。
 カップルや家族連れには、しばらくするときっと忘れられない思い出の一枚となる写真が撮れる人気のコーナーである。別に思い入れがなくても、これだけでもこの船を観光する価値があると思った。
 自撮りできるスマホを持っていないわたしにはこのコーナー、残念ながら無用であるが・・・。


  →「青函連絡船記念館 摩周丸(1)」の記事はこちら


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