温泉クンの旅日記

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京都・東山、「空也の寺」に立寄り(1)

2024-08-18 | 京都点描
  <京都・東山、「空也の寺」に立寄り(1)>

「この近くに<空也(くうや)の寺>があったはずだな・・・」
 京阪電車の「清水五条」駅から、東大路通りにある「清水道」バス停に向かって歩いているときに思いついた。
 たしか・・・寺の名は「六波羅蜜寺(ろくはらみつでら)」。
 スマホで地図検索してみると近いし、途中だ。歩いて10分かからない。軽い下見気分で寄っていこう。

 

「なぜ、口から6体の仏像が出ているんだろう? なぜ、こんなにも粗末な衣で痩せっぽちなんだろう・・・」
 まるでカメレオンが発射した長い舌、みたいなのに載る仏像群・・・「そうだ 京都、行こう」の、<空也上人>立像に対する、そんな問いかけからスタートするキャンペーンCMを観たことが一度でもあるなら、あの画像を忘れられないに違いない。

 口から小さな仏様が6体出てくるというこのユニークな表現は、空也上人が疫病を治めようと京都市中を巡り歩いた際、念仏を唱えたその瞬間を表したものだそうだ。
 空也上人が念仏を唱えるとそれが一音ずつ仏様の姿に変わった、という伝承を立体的に表現していて、6体の仏は「南無阿弥陀仏」を、すなわち6文字の「阿弥陀如来」を表しているのである。

 

 脛が見えるほど短い、まるで襤褸のような衣を纏い、草鞋を履き、胸に鉦鼓台をつけて鉦を下げ、手に撞木と鹿杖を持っているお坊さんの像が<空也上人立像>である。
 空也の死後200年以上が経った鎌倉時代に、運慶の四男「康勝(こうしょう)」が作ったとされている。さすがに慶派の彫刻家だ、ぶっ飛んだ立像をデザインした発想だけでも、時代をはるかに先んじている。

「おっと! ここか。また随分と奥行きのない、狭い寺だな・・・」
 知らずに訪れた参拝客は一様にがっかりしそうである。かつて非常に広大な敷地を誇ったというのだが、火災などにより堂宇を消失し寺域も大幅に縮小してしまったのだ。

 

 醍醐天皇の皇子「空也上人」は京都に疫病が流行したとき、人々から浄財を集めて、一丈の観音像、六尺の梵天・帝釈・四天王の像を造立した。
 また、『大般若経』一部六百巻の書写を発願し、十三年間掛かって完成し、賀茂川の河原で盛大な供養を営み、その地に寺を建てた。創建した天暦5年(951年)当時は「西光寺」と呼ばれたが、貞元2年(977年)に延暦寺の僧「中信」が中興した際に「六波羅蜜寺」と改称されたという。

<六はらさん>の通称で親しまれている「六波羅蜜寺」は、”六波羅蜜”に因んで名づけられた。
“六波羅蜜”とは<布施(親切)、持戒(言行一致)、忍辱(忍耐)、精進(努力)、禅定(反省)、智慧(修養)>のことで、仏教において菩薩に課せられた6種の実践徳目であり、一言でいえば、六波羅蜜とは<6つの善行>のことをいう。

 六波羅蜜寺は巡礼地としても有名で、「西国三十三所霊場」の第17番、「洛陽三十三所霊場」の第15番など、観音霊場のみならず、「都七福神」の弁財天のお寺としても篤い信仰を集めている。

 寺の入口目の前にある、本堂に似た少しちいさな朱塗りの柱に白い漆喰壁の建物は、七福神の一人・弁財天を祀る「六波羅弁才天」という護摩堂である。

 

 七福神の紅一点であり、水を司る弁天様は、学問・技芸・雄弁を司る智恵の神として信仰され、神仏習合によって仏教に取り入れられた後は、人々に財を与え、障害となるものを取り除いてくれるとされてきた。
 また、別れの悲しみや、嫌なことやつらいことも、水に流し清めてくださるともいわれ現在も多くの人が参拝に訪れている。
 この六波羅弁才天の歴史も古く、六波羅探題がここに設けられたころから、幕府の歴代の将軍がここを祈願所として参拝に訪れていた。
 そしてまた、ここは京都の七福神を祀る七箇所の寺社「都七福神」のひとつにも数えられている。
「弁財天堂」の<六波羅弁財天>は、崇徳天皇の夢告により禅海によって造立されたもので、崇徳天皇が亡くなった後、寵愛されていた「阿波内侍(あわのないし)」が屋敷を寺とし、弁財天堂を建立して祀っていたと伝えられている。

 

 室町時代の貞治2年(1363)に建てられた、朱塗りが鮮やかな絢爛豪華な“本堂”は、京都人がよくいう“先の戦争(応仁の乱)”の際にも焼失を免れて現存し、国の重要文化財にも指定されている貴重な建築物である。
 本堂中央の厨子に収められている本尊は、空也上人が自ら彫ったとされる国宝の「十一面観音立像」で、秘仏のため通常は拝することができない。12年に一度の辰年に開帳される。

 

 本堂前に、なぜか天神さんでよく見かける「なで牛」があって驚いた。60年ほど前に寄進されたものだそうで、この牛、多くの信仰を集めているという。


  ― 続く ―


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