<奈良、東大寺・大仏殿(4)>
本尊の大仏と両側の脇侍を、構図も考えずにパシャパシャと撮り終えて、たっぷりの満足感に包まれた。
「たしか足立美術館も撮影フリ―だったな・・・」
島根の安来にある「足立美術館」を訪ねた記事の中でこう書いた。
『「庭園もまた一幅の絵画である」
これは創設者の言葉である。
美術館といえば、イコール撮影禁止が常識だがここの庭園は撮影が許可されている。太っ腹でなんとも素晴らしい。千葉の猫の美術館に続いての撮影フリーだ。もっとも来館する客の数が半端ではなく多いので、人を入れずに写すのが大変そうだが。』
たいていどこの神社仏閣では建物内部は撮影禁止ばかりで、ましてや本尊の仏像は肉眼での観賞だけに限られるのに・・・。
東大寺金堂でのこの<撮影OK>も、きっと人気寺社ベストテン1位押し上げに貢献しているに違いない。
(さて、先客達に習って大仏殿の中を時計回りに進むとするか・・・)
東大寺の記録によれば、脇侍の虚空蔵菩薩と如意輪観音、そして四天王像は、運慶とその一族によって創建時に造立されたものだったというが、1567年(永禄10年)の松永久秀の兵火によって焼失してしまったそうだ。
四天王とは、帝釈天の配下で仏教世界を守護神であり、東方を護る持国天(じこくてん=国を支える)、南方を護る増長天(ぞうちょうてん=恵みを増大させる)、西方を護る広目天(こうもくてん=広く見通せる目をもつ)、北方を護る多聞天(たもんてん=仏の教えを多く聞く)からなる。
金堂の四隅に安置された四天王像(護法神)は、向かって右手から時計回りに、右手前の東を「持国天」、左手前の南を「増長天」、左手奥の西に「広目天」、右手奥の北に「多聞天」を配していた。並びの簡単な覚え方は「じぞうこうた」だそうである。
東大寺金堂には、四天王のうち持国天と増長天の頭部が安置されている。
「増長天」の素木(しらき)の頭部。
寺の創建当初、四天王像は四体揃っていたが、兵火によって二度焼失し、 その後、広目天と多聞天は鎌倉時代に再建されたが、「持国天」と「増長天」は頭部が造られただけで完成には至らなかった。
「持国天」の素木(しらき)の頭部。
頭部だけとはいえ、持国天と増長天、どちらの頭部とも眼光には威厳と異様な迫力があり、立派な美術品といえる。(ほらそこ! 大相撲の幕内力士の誰それに似ているとか言ってると、バチが当たるよ!)
仏像の四天王は、甲冑に身を固め、武器を執り邪鬼を踏みつける忿怒相の武神の姿が一般的で、「広目天」は筆と経巻を持ち、「多聞天」は天に塔を捧げており、増長天像と「広目天像」は腰を右に、持国天像と「多聞天像」は腰を左にひねっているそうだ。
再建された「広目天」。
同じく再建された「多聞天」。
リーダー格ともいえる「多聞天」は単独で祀られることがあり、単独では「毘沙門天(びしゃもんてん)」と呼ばれている。
東大寺の四天王像は、鑑真が創建した戒壇院には金銅の像が安置されていたと記録されているが、現在の四天王像は「塑像(土でつくられた像)」で、奈良時代の作だそうである。
「多聞天」のすぐそばには、「穴くぐり」ができることで有名な<柱>がある。
大仏殿を中心からみて北東側は鬼門にあたり、柱に穴をあけることにより邪気を逃す役割をしている。
柱には、大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が開いていて、柱の穴をくぐり抜けると無病息災や頭がよくなるなどのご利益があるとされている。
柱の穴は横30センチ、縦37センチ、直径120センチで、大仏の鼻の穴と同じくらいの大きさで、子どもには難なくくぐれるが、大人一人がやっと通れるぐらいの大きさである。
もしも抜けだせなくなったら、とにかく大声で叫べばすぐに関係者が駆けつけてくれる、と聞いてわたしはやめておく。
(おっ、これって長野の善光寺でもみた「殿賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)」だ!)
大仏殿を一周して、ドアを出た左の壁に安置してあった。
たしか釈迦仏の弟子十六羅漢の一人で、神通力をもてあそんだとして釈尊に叱責され涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生の救済をした。わが国では堂の前にこれを置き、撫でると除病の功徳があるとされ「なで仏」とも言われる。
かなり怖い顔をしているが、赤いベレー帽をかぶっているので優しい顔にも見えてくるから不思議だ。
→「奈良、東大寺・大仏殿(1)」の記事はこちら
→「奈良、東大寺・大仏殿(2)」の記事はこちら
→「奈良、東大寺・大仏殿(3)」の記事はこちら
→「足立美術館(1)」の記事はこちら
→「足立美術館(2)」の記事はこちら
→「足立美術館(3)」の記事はこちら
本尊の大仏と両側の脇侍を、構図も考えずにパシャパシャと撮り終えて、たっぷりの満足感に包まれた。
「たしか足立美術館も撮影フリ―だったな・・・」
島根の安来にある「足立美術館」を訪ねた記事の中でこう書いた。
『「庭園もまた一幅の絵画である」
これは創設者の言葉である。
美術館といえば、イコール撮影禁止が常識だがここの庭園は撮影が許可されている。太っ腹でなんとも素晴らしい。千葉の猫の美術館に続いての撮影フリーだ。もっとも来館する客の数が半端ではなく多いので、人を入れずに写すのが大変そうだが。』
たいていどこの神社仏閣では建物内部は撮影禁止ばかりで、ましてや本尊の仏像は肉眼での観賞だけに限られるのに・・・。
東大寺金堂でのこの<撮影OK>も、きっと人気寺社ベストテン1位押し上げに貢献しているに違いない。
(さて、先客達に習って大仏殿の中を時計回りに進むとするか・・・)
東大寺の記録によれば、脇侍の虚空蔵菩薩と如意輪観音、そして四天王像は、運慶とその一族によって創建時に造立されたものだったというが、1567年(永禄10年)の松永久秀の兵火によって焼失してしまったそうだ。
四天王とは、帝釈天の配下で仏教世界を守護神であり、東方を護る持国天(じこくてん=国を支える)、南方を護る増長天(ぞうちょうてん=恵みを増大させる)、西方を護る広目天(こうもくてん=広く見通せる目をもつ)、北方を護る多聞天(たもんてん=仏の教えを多く聞く)からなる。
金堂の四隅に安置された四天王像(護法神)は、向かって右手から時計回りに、右手前の東を「持国天」、左手前の南を「増長天」、左手奥の西に「広目天」、右手奥の北に「多聞天」を配していた。並びの簡単な覚え方は「じぞうこうた」だそうである。
東大寺金堂には、四天王のうち持国天と増長天の頭部が安置されている。
「増長天」の素木(しらき)の頭部。
寺の創建当初、四天王像は四体揃っていたが、兵火によって二度焼失し、 その後、広目天と多聞天は鎌倉時代に再建されたが、「持国天」と「増長天」は頭部が造られただけで完成には至らなかった。
「持国天」の素木(しらき)の頭部。
頭部だけとはいえ、持国天と増長天、どちらの頭部とも眼光には威厳と異様な迫力があり、立派な美術品といえる。(ほらそこ! 大相撲の幕内力士の誰それに似ているとか言ってると、バチが当たるよ!)
仏像の四天王は、甲冑に身を固め、武器を執り邪鬼を踏みつける忿怒相の武神の姿が一般的で、「広目天」は筆と経巻を持ち、「多聞天」は天に塔を捧げており、増長天像と「広目天像」は腰を右に、持国天像と「多聞天像」は腰を左にひねっているそうだ。
再建された「広目天」。
同じく再建された「多聞天」。
リーダー格ともいえる「多聞天」は単独で祀られることがあり、単独では「毘沙門天(びしゃもんてん)」と呼ばれている。
東大寺の四天王像は、鑑真が創建した戒壇院には金銅の像が安置されていたと記録されているが、現在の四天王像は「塑像(土でつくられた像)」で、奈良時代の作だそうである。
「多聞天」のすぐそばには、「穴くぐり」ができることで有名な<柱>がある。
大仏殿を中心からみて北東側は鬼門にあたり、柱に穴をあけることにより邪気を逃す役割をしている。
柱には、大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が開いていて、柱の穴をくぐり抜けると無病息災や頭がよくなるなどのご利益があるとされている。
柱の穴は横30センチ、縦37センチ、直径120センチで、大仏の鼻の穴と同じくらいの大きさで、子どもには難なくくぐれるが、大人一人がやっと通れるぐらいの大きさである。
もしも抜けだせなくなったら、とにかく大声で叫べばすぐに関係者が駆けつけてくれる、と聞いてわたしはやめておく。
(おっ、これって長野の善光寺でもみた「殿賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)」だ!)
大仏殿を一周して、ドアを出た左の壁に安置してあった。
たしか釈迦仏の弟子十六羅漢の一人で、神通力をもてあそんだとして釈尊に叱責され涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生の救済をした。わが国では堂の前にこれを置き、撫でると除病の功徳があるとされ「なで仏」とも言われる。
かなり怖い顔をしているが、赤いベレー帽をかぶっているので優しい顔にも見えてくるから不思議だ。
→「奈良、東大寺・大仏殿(1)」の記事はこちら
→「奈良、東大寺・大仏殿(2)」の記事はこちら
→「奈良、東大寺・大仏殿(3)」の記事はこちら
→「足立美術館(1)」の記事はこちら
→「足立美術館(2)」の記事はこちら
→「足立美術館(3)」の記事はこちら
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