温泉クンの旅日記

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かみのやま温泉(1) 山形・上山

2015-08-23 | 温泉エッセイ
  <かみのやま温泉(1)>

 山形新幹線と奥羽本線(山形線)が発着する、かみのやま温泉駅である。



 到着するのが早かったので、駅のすぐ横手にあるコンビニに車を止めさせてもらいうぶらぶら散策することにした。

 上山城、だ。



 以前にも来たことがあり、城は木造だったような気がしていたのだが記憶は曖昧なものだ。
 駅から歩いて五分ほどの、温泉街の小高い坂の上の一角にこんな立派な城があるのは全国でも珍しいのではないだろうか。
 歴史的にいうと城より温泉のほうが先で、五百年以上前の長禄二年(1458年)の発祥である。城が築かれたのはその約八十年後の天文四年(1535年)だ。

「羽州の名城」として知られる上山城(月岡城)は最上氏ゆかりの城であり、米沢の伊達氏や上杉氏との攻防の舞台となった。最上家改易の後、百五十年にわたり歴代藩主の居城となる。
 明治時代の廃城令の影響でいったん廃城となったのだが、1982年に、二の丸跡に現在の三層の模擬天守が建てられた。天守は郷土資料館として雛人形展、収蔵品展、刀剣展などの催しが行われている。



 寛永六年、僧「沢庵」は紫衣事件での処罰を受けて上山の地に流された。時の藩主土岐氏は名僧沢庵に帰依して教導を仰いで領民より名君と慕われた。沢庵といえば三代将軍家光に愛され、石田光成などの戦国時代の諸将、剣豪の柳生宗矩や柳生十兵衛、宮本武蔵ともゆかりやら逸話があるかなり著名な人物だ。
 城のすぐ下に碑があった。



 近寄って読むと、上山藩主土岐頼行と沢庵和上の「上中下三字説」問答が刻まれていて面白い。為政者としての心構えである。

 頼行曰く「政について心得べきは何か」
 師曰く「政は『上・中・下なり』。下は領民なり。上は為政者なり。上方ばかり、下方ばかり見ていては不可。上下の意思の疎通なり。上の字を返せば下の字となる。下の字を返せば上の字となる。上下は体なり。上と下を取り結ぶものが中なり。中は、口に上下のたて線を貫く。言葉で意思が通ひるなり」

 廃城の際に移築された建造物のうち、藥医門形式の門が赤湯温泉の宿「いき帰りの宿 瀧波」に移築され現存しているそうだ・・・。大箱の宿が多いかみのやま温泉より、隣にある赤湯温泉の宿のほうがわたしはナジミがある。・・・こんなところであの「瀧波」にバッタリ出会うとは意外である。

 城が築かれると、その西側と北側の一帯は家来たちが住む武家屋敷町となった。
 仲丁通りには、藩の要職にあった家臣が居住していて、現在でも四軒が現存して市の有形文化財に指定されている。屋敷町の規模と趣は鹿児島の知覧や山口の萩ほどではないが一見の価値はある。


 十一代目が「錦繍亭」と愛称した「森本家」の屋敷で、現在の当主は十五代目となる。



「三輪家」の建築は文化年間の初期、平入り寄棟造りで改造が一部なされているが曲屋茅葺のままである。





 屋敷に松の大樹があったことから「松陰亭」と愛称していた「山田家」。現在の当主は九代目である。



 中級武家屋敷の様式が残る「旧曽我部家」の屋敷である。



  ― 続く ―


   →「知覧武家屋敷(1)」の記事はこちら
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   →「武家屋敷通り(2)」の記事はこちら
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   →「餅搗きの宿(3)」の記事はこちら

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