<京都・嵯峨、愛宕念仏寺(1)>
山城国と丹波国の国境、愛宕山(あたごさん)の山頂に建つのは「愛宕(あたご)神社」で、その参道の山麓入口に建つこの寺は「愛宕念仏寺」である。
「愛宕念仏寺」の読みだが「あたごねんぶつじ」ではなく、「おたぎねんぶつじ」と読むからややこしい。
すぐ前にある京都バスの停留所も「愛宕寺前(おたぎでらまえ)」と読む。停留所へいき、バスの時刻表の、本数少ない帰りの候補時間を頭に刻みこむ。
今回はこの寺にある、千二百躰ともいわれる石造の羅漢を観賞しに訪れたのだ。
参道入口の「愛宕念仏寺」から「愛宕神社」へは、徒歩で90分から120分掛かる。しかも当然のことだが、山頂への山路だからきつい。
愛宕神社には、あの長谷川平蔵も参詣に訪れている。
『平蔵は、忠吾をつれての、愛宕山・参詣をおもいたった。
愛宕山は京都の北西四里のところにあり、祭神は稚産日命(わくむすびのみこと)、
伊弉再命(いざなみのみこと)ほか数柱。鎮火の神として古いむかしからの朝野の崇敬があつく、
戦国のころ、かの明智光秀が愛宕神社へのぼって、織田信長弑逆の吉兆をうらなった
という・・・・・・ま、このくらいのことは木村忠吾もわきまえていたようである。
保津川の谷間をへだてて嵐山をのぞむ絶好の地で、檜や杉の鬱蒼たる樹林につつまれた
愛宕山頂の社家へ一夜を泊したのは、三浦奉行の紹介によるものであった。』
文春文庫刊 鬼平犯科帳3巻「凶剣」より
嵐山から清滝行の京都バスで上がってきて、「愛宕念仏寺」を嵯峨野めぐりの始発点とすれば、後の見所はすべて下り坂で便利この上ないそうだ。
(ここを嵯峨野めぐりの始発点だとォーっ!)
そんなウマい手があったとは、露ほども知らなんだ。
嵐電の嵐山駅から出発して嵯峨野は何度も歩いているが、たいていは「化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)」か、その先5分ほど歩いた愛宕社・一ノ鳥居そばにある「鮎茶屋 平野家」までで、Uターンして嵐山方面に戻っていた。あともう5分歩けば愛宕念仏寺なのだが、そのころはまだ羅漢像などにまったく興味はなかったのだ。
平野家は、平蔵と忠吾も、愛宕山一泊参詣の往復に立ち寄っている。
『山頂より五十余丁の山道を下り、清滝川をわたって試坂(こころみざか)をこえると、そこが
愛宕社・一ノ鳥居である。
この鳥居ぎわに、わら屋根の、いかにも風雅な掛け茶屋があって、名を[平野や]という。
平野やは、享保のころからある古い茶屋だそうな。愛宕詣での人びとが、ここへ来てひと休みし、
いよいよ山道をのぼろうというわけで、平蔵も往きには足を休めている。
夏になると、保津川や清滝川でとれる鮎をこの平野やまではこび、荷の中の鮎へ水をかえてやり、
一息入れてから京へはこぶのだ。』
文春文庫刊 鬼平犯科帳3巻「凶剣」より
平蔵と忠吾は参詣帰りに平野やで、こころゆくまで嵐気にひたりつつ、おもうさま酒をのみ、鯉や田楽などを食べたようだ。
さて、それでは目的の、羅漢像をたっぷり観賞するとしよう。
― 続く ―
→「嵯峨野、化野念仏寺で出会った名言」の記事はこちら
山城国と丹波国の国境、愛宕山(あたごさん)の山頂に建つのは「愛宕(あたご)神社」で、その参道の山麓入口に建つこの寺は「愛宕念仏寺」である。
「愛宕念仏寺」の読みだが「あたごねんぶつじ」ではなく、「おたぎねんぶつじ」と読むからややこしい。
すぐ前にある京都バスの停留所も「愛宕寺前(おたぎでらまえ)」と読む。停留所へいき、バスの時刻表の、本数少ない帰りの候補時間を頭に刻みこむ。
今回はこの寺にある、千二百躰ともいわれる石造の羅漢を観賞しに訪れたのだ。
参道入口の「愛宕念仏寺」から「愛宕神社」へは、徒歩で90分から120分掛かる。しかも当然のことだが、山頂への山路だからきつい。
愛宕神社には、あの長谷川平蔵も参詣に訪れている。
『平蔵は、忠吾をつれての、愛宕山・参詣をおもいたった。
愛宕山は京都の北西四里のところにあり、祭神は稚産日命(わくむすびのみこと)、
伊弉再命(いざなみのみこと)ほか数柱。鎮火の神として古いむかしからの朝野の崇敬があつく、
戦国のころ、かの明智光秀が愛宕神社へのぼって、織田信長弑逆の吉兆をうらなった
という・・・・・・ま、このくらいのことは木村忠吾もわきまえていたようである。
保津川の谷間をへだてて嵐山をのぞむ絶好の地で、檜や杉の鬱蒼たる樹林につつまれた
愛宕山頂の社家へ一夜を泊したのは、三浦奉行の紹介によるものであった。』
文春文庫刊 鬼平犯科帳3巻「凶剣」より
嵐山から清滝行の京都バスで上がってきて、「愛宕念仏寺」を嵯峨野めぐりの始発点とすれば、後の見所はすべて下り坂で便利この上ないそうだ。
(ここを嵯峨野めぐりの始発点だとォーっ!)
そんなウマい手があったとは、露ほども知らなんだ。
嵐電の嵐山駅から出発して嵯峨野は何度も歩いているが、たいていは「化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)」か、その先5分ほど歩いた愛宕社・一ノ鳥居そばにある「鮎茶屋 平野家」までで、Uターンして嵐山方面に戻っていた。あともう5分歩けば愛宕念仏寺なのだが、そのころはまだ羅漢像などにまったく興味はなかったのだ。
平野家は、平蔵と忠吾も、愛宕山一泊参詣の往復に立ち寄っている。
『山頂より五十余丁の山道を下り、清滝川をわたって試坂(こころみざか)をこえると、そこが
愛宕社・一ノ鳥居である。
この鳥居ぎわに、わら屋根の、いかにも風雅な掛け茶屋があって、名を[平野や]という。
平野やは、享保のころからある古い茶屋だそうな。愛宕詣での人びとが、ここへ来てひと休みし、
いよいよ山道をのぼろうというわけで、平蔵も往きには足を休めている。
夏になると、保津川や清滝川でとれる鮎をこの平野やまではこび、荷の中の鮎へ水をかえてやり、
一息入れてから京へはこぶのだ。』
文春文庫刊 鬼平犯科帳3巻「凶剣」より
平蔵と忠吾は参詣帰りに平野やで、こころゆくまで嵐気にひたりつつ、おもうさま酒をのみ、鯉や田楽などを食べたようだ。
さて、それでは目的の、羅漢像をたっぷり観賞するとしよう。
― 続く ―
→「嵯峨野、化野念仏寺で出会った名言」の記事はこちら
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