温泉クンの旅日記

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京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(2)

2024-06-23 | 京都点描
  <京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(2)>

 まだ傘の花も咲いていないようだし、では、太閤が設計したというご自慢の庭とやらをじっくりと拝見しようじゃないか。
「ほぉー、素晴らしい! これを秀吉が作庭したのか・・・」

 

 目の前の中島二つだが、樹齢600年以上といわれる五葉松が覆っている手前のが「亀島」。その右隣が「鶴島」で、すぐ左の石橋が鶴の首にあたり、いまにも五葉松の鶴が飛び立とうとしている躍動感を表しているそうだ。
 池の向こう岸の樹林のなかに、醍醐寺全体の復興に尽力した秀吉の恩に報いるために豊臣秀吉を祀る社、「豊国大明神」が建立された。

(ジツに変化に富んだ庭園なので、桜の木が少なくても充分に良さそうだな・・・)
 三宝院のどこかに移し植えたとしても、庭園は、実際に桜は少ないのかもしれない・・・。

 

 慶長3年(1598年)、<醍醐の花見>を思い立った秀吉が自ら縄張りをなし、池の形や中島の場所、石の据える場所や建てる場所などを決めて改修し築いた。三宝院庭園の作庭と同時に、秀吉は寺の境内のあちこち、「総門」から「槍山」に至るまでに、枝垂れ桜、ソメイヨシノ、山桜、八重桜など700本の桜を植え移したという。

 秀吉が目論んだ花見だが、直前になって、開催が危惧される状況に陥る。

  『花見の前日、十四日は、物凄まじい暴風雨になった。それは明日の花見など、やれるものならやってみよと、
  天候が秀吉に挑戦しているかのような風雨であった。
    ― 略 ―
  「明日はわしが晴らして見せるわ。いかに天じゃとて、この心、曲げられるものなら曲げて見よ。女どもに、
  暴風雨じゃとて明日の支度をおこたらせるなっ」
    ― 略 ―
   翌日は、夜明け前にぴたりと風雨は止んで、三月十五日は、もろもろの記録が示すように秋空かと
  擬うばかりの晴天になった。
  「――それ見よ。こたびはの、天も感応せずにおかぬ行事なのじゃ」
   植え移した無数の桜は雨に根付き、満開とはいかなかったが、蕾はいちどに咲きかけて、一里十町にわたる
  桜並木は、それこそ太閤の意思を寿ぐもののように、塵埃を静めて風情を添えた。』

      講談社 山岡荘八歴史文庫「豊臣秀吉[8]」より

 桃山時代の庭園によく見られる、豪壮な石組護岸をもつ園池を中心とした池泉式庭園である。秀頼誕生後に追放した甥の関白「豊臣秀次」を、謀反人として印象付けるため3年前に徹底的に破却した「聚楽第」から、選びぬいて運んできた名石がふんだんに使われているようだ。

 

 表書院縁側にめぐらせた勾欄と池の間に、「賀茂の三石」と呼ばれる三つの珍しい形の景石があるらしいが、わたしの写した画像ではかろうじて二つくらいしか確認できない。

 

 遠くて、残念ながら三つある中心部分の大きな景石しか見えないが、庭の中心に位置する「藤戸石(ふじといし)」は阿弥陀三尊を表しているといい、歴代の武将(足利義昭・織田信長・豊臣秀吉)に引き継がれたことから「天下人石」ともいわれている。(「ふじと石」を「不死人石」に掛けて願ったとも)

 

 

 表書院の奥の間である「純浄観」は、太閤秀吉が醍醐山中腹の槍山で花見をしたときの建物を移築したものといわれている。

 

 

 襖絵の桜、紅葉は、近年の平成に入ってから「浜田泰介」画伯が描いたものだ。

 園内には石橋、木橋、土橋が架けられているのだが、どれも苔蒸していて判然としない。

 

 純浄観から見づらいが、見事に苔むした橋の、右側にある「三段の滝」は庭に深山の趣を加え、滝山を高くし立石などの作庭がされ、三段各々の滝の音がさらにこの庭園を引き立てている。なお、滝を二段から三段に変更したのは義演だといわれている。
 木々の向こう、三段の滝近くにある建物が、茶室「枕流亭」である。


  ― 続く ―


   →「京都・伏見、醍醐寺「三宝院」(1)」の記事はこちら


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