< 土左衛門 >
新潟県の越後湯沢から、国道を群馬県のほうに向かう峠の途中に、貝掛温
泉がある。
国道からはずれ、狭い鋭角と急勾配の、車が一台しか通れぬ小道と石橋を
渡ったところにある、一軒宿である。日帰りでも気軽に入浴できる。
時間帯が狭間だったせいか駐車場に止められている車は数台しかなかった。
(お、先客はひとりしかいないぞ。ふふ、しめしめ)
芋の子を洗うような混んだ風呂より、のびのびできる空いた風呂のほうが誰で
もいいに決まっている。
内風呂の広い浴槽のまんなかには、頭頂部のてっぺんが丸く禿げている男が
背中をこちらに向けて入浴中だ。
わたしは木桶を手に浴槽のふちにしゃがむと、掛け湯を足先から念入りに始
める。心臓あたりに掛けたのを最後に桶を置き、浴槽にゆっくり身を沈めていく。
はあー。ぷっはあーっ。うう。
思い切り長めのため息を何度も吐くのは、湯に抱きすくめられて気持ちがいい
ことももちろんあるが、浴室の空気中に立ち昇り満ちている温泉の粒子を体内に
深々と取りこむためでもある。首までどっぷり浸かって顔に源泉をつるりと撫でこ
んだり、強張った首や肩の筋を揉んだり、四肢や背筋をていねいに伸ばす。
ばちゃん、と後方で水音がした。
振り返るとそこには誰もいない。ん? 誰もいない? そんなわけはない、
さっきまでひとりいたはずだ。露天にいくにしても、わたしの前を通って浴槽を
出て行かねばならないはずだ。
(ま、まさか!)
ひざ立ちになってみてみると、湯の中にあぐらをかいて沈んでいるひとがいた。
さながら、甲羅を脱いだ河童が川底の石をめくって川虫を捕まえているように
みえる。皿のまわりの少なめな髪の毛が海藻のように水面に向かって揺らいで
いる。その横に気泡がぶくぶくと浮かんで消えた。飲酒しての湯あたりか長湯
からくる心臓発作で、気を失って湯船に突っ伏すように倒れこんだのか。
「こっこっ、これって、どら、じゃない、土左衛門? お、溺れているの!?」
思わず小さく声にだすが、むろん誰も答えてくれない。くそっ、こういうときに
かぎって他の客がひとりもこないぜ。どうしよう。瞬間、「ああ人情紙風船! 目
の前で溺れているのを非情にも見殺し!」そんな新聞の見出しが頭に閃いた。
「ひとでなし」「人」「冷血な温泉狂」なんかもスポーツ新聞系ならぱらぱらと
トッピングされるだろう。他に大きなニュースがなければテレビでも、同僚のネク
タイあたりや近所の主婦のセーターの豊満な胸のアップの固定画面で、ボイス
チェンジャーを使った音声を使い「ふだんからカレは、どことなーくナニ考えている
かわからないところがありましたね」「そう、そう、そう、そういえばこんなことがあり
ましたよ・・・」なんてぇのが全国ネットで流れてしまうかもしれない。ここまで、また
たきする間に一気に考えたのだ。
いかん、助けなきゃ! 「だ、だいじょうぶですかあっ!」
湯を蹴散らかしてあわてて駆け寄った。
肩に手をかけようとしたとたん、ざっばあっと、湯しぶきをあげて河童が身を
起こした。
「うわあ、びっくりした。だいじょうぶですかあ?」
「うわあ、なんなんだ。きみは! げほげほ。ぺっぺっ。 びっくりして湯を飲んで
しまったじゃないか!」
「ご気分はどうですか。医者か救急車でも呼びましょうか?」
「なあにを言ってるの。いーい? おれは眼が悪いのォ、ここは眼にいい温泉な
のォ。だから眼を温泉に浸けてたのォ!」
中年河童が乱れたおぐしを撫で付けながら、鼻の穴膨らませ憤然と言った。
「な、なーる・・・それは・・・すみませんでした」
そりゃどうもすみません。とりあえず、場を丸く治めるためにひたすら謝った。
でも思うのだけど、眼を温泉に浸けるってもさあ、手で掬って浸けるとか桶使う
とか、他にないのかよ。ひと騒がせでない方法が。謝りながらもそう言いたく
なる。
ここで、やっと他の客が数人どやどやとはいってきた。
なんとなくばつが悪いので、とりあえず内湯からでて露天に向かうことにする。
外にでて、見れば石組みの露天風呂の源泉がおちる湯口のあたりで、顔を
沈めているひとがいて、やっぱりそういう入浴作法ありの温泉なのかふうむと、
しぶしぶ納得したとたん、露天風呂につづく足元の踏み石のぬめりでツルリン
コンと滑り、転倒しそうになる。
うわあっ! このまま倒れたら後頭部を血だらけに割っちゃう! それって、
はぐれ刑事純情派での定番の殺人パターンではないの。形相変えて必死に腕を
じたばた振り回して、バランスをかろうじて取り戻したが、心臓がばくばくいって
しまう。
アブナイ危ない、打ちどころが悪くて死んじゃえば、こっちが事件になるとこだっ
たい、まったく!
それから、いつもの冷静沈着な、いぶし銀の自分をとりもどすのに、どれほど
の時間がかかったかは、とにかく誰にもいいたくない。
新潟県の越後湯沢から、国道を群馬県のほうに向かう峠の途中に、貝掛温
泉がある。
国道からはずれ、狭い鋭角と急勾配の、車が一台しか通れぬ小道と石橋を
渡ったところにある、一軒宿である。日帰りでも気軽に入浴できる。
時間帯が狭間だったせいか駐車場に止められている車は数台しかなかった。
(お、先客はひとりしかいないぞ。ふふ、しめしめ)
芋の子を洗うような混んだ風呂より、のびのびできる空いた風呂のほうが誰で
もいいに決まっている。
内風呂の広い浴槽のまんなかには、頭頂部のてっぺんが丸く禿げている男が
背中をこちらに向けて入浴中だ。
わたしは木桶を手に浴槽のふちにしゃがむと、掛け湯を足先から念入りに始
める。心臓あたりに掛けたのを最後に桶を置き、浴槽にゆっくり身を沈めていく。
はあー。ぷっはあーっ。うう。
思い切り長めのため息を何度も吐くのは、湯に抱きすくめられて気持ちがいい
ことももちろんあるが、浴室の空気中に立ち昇り満ちている温泉の粒子を体内に
深々と取りこむためでもある。首までどっぷり浸かって顔に源泉をつるりと撫でこ
んだり、強張った首や肩の筋を揉んだり、四肢や背筋をていねいに伸ばす。
ばちゃん、と後方で水音がした。
振り返るとそこには誰もいない。ん? 誰もいない? そんなわけはない、
さっきまでひとりいたはずだ。露天にいくにしても、わたしの前を通って浴槽を
出て行かねばならないはずだ。
(ま、まさか!)
ひざ立ちになってみてみると、湯の中にあぐらをかいて沈んでいるひとがいた。
さながら、甲羅を脱いだ河童が川底の石をめくって川虫を捕まえているように
みえる。皿のまわりの少なめな髪の毛が海藻のように水面に向かって揺らいで
いる。その横に気泡がぶくぶくと浮かんで消えた。飲酒しての湯あたりか長湯
からくる心臓発作で、気を失って湯船に突っ伏すように倒れこんだのか。
「こっこっ、これって、どら、じゃない、土左衛門? お、溺れているの!?」
思わず小さく声にだすが、むろん誰も答えてくれない。くそっ、こういうときに
かぎって他の客がひとりもこないぜ。どうしよう。瞬間、「ああ人情紙風船! 目
の前で溺れているのを非情にも見殺し!」そんな新聞の見出しが頭に閃いた。
「ひとでなし」「人」「冷血な温泉狂」なんかもスポーツ新聞系ならぱらぱらと
トッピングされるだろう。他に大きなニュースがなければテレビでも、同僚のネク
タイあたりや近所の主婦のセーターの豊満な胸のアップの固定画面で、ボイス
チェンジャーを使った音声を使い「ふだんからカレは、どことなーくナニ考えている
かわからないところがありましたね」「そう、そう、そう、そういえばこんなことがあり
ましたよ・・・」なんてぇのが全国ネットで流れてしまうかもしれない。ここまで、また
たきする間に一気に考えたのだ。
いかん、助けなきゃ! 「だ、だいじょうぶですかあっ!」
湯を蹴散らかしてあわてて駆け寄った。
肩に手をかけようとしたとたん、ざっばあっと、湯しぶきをあげて河童が身を
起こした。
「うわあ、びっくりした。だいじょうぶですかあ?」
「うわあ、なんなんだ。きみは! げほげほ。ぺっぺっ。 びっくりして湯を飲んで
しまったじゃないか!」
「ご気分はどうですか。医者か救急車でも呼びましょうか?」
「なあにを言ってるの。いーい? おれは眼が悪いのォ、ここは眼にいい温泉な
のォ。だから眼を温泉に浸けてたのォ!」
中年河童が乱れたおぐしを撫で付けながら、鼻の穴膨らませ憤然と言った。
「な、なーる・・・それは・・・すみませんでした」
そりゃどうもすみません。とりあえず、場を丸く治めるためにひたすら謝った。
でも思うのだけど、眼を温泉に浸けるってもさあ、手で掬って浸けるとか桶使う
とか、他にないのかよ。ひと騒がせでない方法が。謝りながらもそう言いたく
なる。
ここで、やっと他の客が数人どやどやとはいってきた。
なんとなくばつが悪いので、とりあえず内湯からでて露天に向かうことにする。
外にでて、見れば石組みの露天風呂の源泉がおちる湯口のあたりで、顔を
沈めているひとがいて、やっぱりそういう入浴作法ありの温泉なのかふうむと、
しぶしぶ納得したとたん、露天風呂につづく足元の踏み石のぬめりでツルリン
コンと滑り、転倒しそうになる。
うわあっ! このまま倒れたら後頭部を血だらけに割っちゃう! それって、
はぐれ刑事純情派での定番の殺人パターンではないの。形相変えて必死に腕を
じたばた振り回して、バランスをかろうじて取り戻したが、心臓がばくばくいって
しまう。
アブナイ危ない、打ちどころが悪くて死んじゃえば、こっちが事件になるとこだっ
たい、まったく!
それから、いつもの冷静沈着な、いぶし銀の自分をとりもどすのに、どれほど
の時間がかかったかは、とにかく誰にもいいたくない。
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