・・・昨日も相変わらず、古代史の読書を楽しんでいた。
昨日読んだ本の中に、「ヤマトとカラの出会い」と云う文章タイトルがあった。
四世紀初頭において、間違いなく日本列島の中心は北九州から、奈良盆地東南のヤマトに移った。
その理由は、祭祀遺跡の出土物を見ていると分かることが多いが、
本の中ではその考古学的証拠として、一つは、朝鮮半島南の遺跡の倭の出土遺物が、四世紀初頭を境にして、北九州のものから、奈良盆地のものへと変わるらしい、ことと、
もう一つは、半島への航行ルートにある、福岡沖合の沖の島の祭祀遺跡が、4世紀後半に突然出現する、
そして、その遺物は同じ時代の北九州の古墳出土遺物と比べ物にならないほど豪華で、大和政権の古墳の遺物に匹敵する、ヤマト朝廷による祭祀遺跡が発見されている。
また、表題の「カラ」と云うのは、4世初頭当時の朝鮮半島の日本列島への主な玄関口である加羅(カラ)国のことである。 現在の韓国の釜山のあたりにあった古代朝鮮の国です。
日本列島に初めて広域を支配する国が奈良盆地東南の地域(ヤマト)がそれまで、大陸、朝鮮半島と交易していた日本列島の窓口が北九州から、ヤマトに移ったのが4世紀初めで、それを「ヤマトとカラの出会い」と表現しているわけです。
それは、ヤマトと云う国が四世紀に、東アジアの歴史に現れることを示しています。
後の時代になるとヤマトはまず、大倭(ヤマト)と表記するようになり、またその後は大和(ヤマト)と表記するようになる。
また、「カラ」は加羅から、韓(カラ)そして、唐(カラ)と書くようになり、「カラ」は日本人にとって、とても重要な外国を言う総称になっていきます。
つい、最近まで、「カラ」と云う言葉は生きて使われていました。