夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

晩年の作 黄初平図 柴田是真筆

2023-02-24 00:01:00 | 掛け軸
当方の蒐集対象の画家野一人になっている柴田是真の作品をひさかたぶりに紹介します。

晩年の作 黄初平図 柴田是真筆
絹本水墨(漆)淡彩軸装 軸先鹿骨 富田幸次郎旧蔵? 庄司芳真鑑定箱入
全体サイズ:縦1750*横475 画サイズ:縦385*横530

 

描かれている画題はご存じの「黄初平」です。本ブログでは寺崎廣業での作品紹介で3作品、さらには小杉放庵の作品で紹介しています。

念のために「黄初平」については下記の記述のとおりです。

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黄初平:「黄初平」(こう しょへい、328年 - 386年?)は中国東晋(東陽郡長山県丹渓=現在の浙江省金華市蘭谿市)の仙人で、『列仙伝』や『芸文類聚』などの古書にその名を見ることができる。「黄」は「皇」と書く場合があります。黄大仙(道教系寺院)に本尊として祀られています。

黄初平は15歳のとき、羊飼いをしているところをある道士に見込まれ、金華山という山の中に連れていかれたまま40年間も消息不明になりました。

のちに、彼の兄の初起が道士に遇って所在を聞きだし、初平と再会することができましたが、道士によれば、いまだに羊飼いをしているはずの初平の周囲には一頭も羊が見あたりません。そこで、不思議に思った初起が問いただすと、初平は、「羊はいますよ。ただ兄さんには見えないのでしょう」と言って鞭を振るい、周りの白い石を叱って、石をことごとく羊に変じさせたという。修行を終えた仙人にとって、石は羊でもあり、羊は石でもあるということです。



「物質界が、ある一側面からの物の見方によって定義づけられた、制約の多い特殊な世界である。」という教えであろうとされています。



その後には兄もまた妻子を捨てて初平とともに仙道をきわめ、不老不死となったとされます。

*作品中の動物は羊というより山羊・・・???



初平はその後「赤松子」と名を変え、黄初起も「魯班」と称したと『神仙伝』にありますが、赤松子・魯班ともに前の時代の伝説的人物です。黄初平については多くの画家が画題として描いています。

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落款と印章から推定すると最晩年の作でしょうか? 下記写真左は本作品中の落款と印章となります。下記写真右は資料の落款と印章となります。

 

鑑定されている庄司芳真については手元の資料やインターネットには詳細はありませんので、詳しくは知りませんが下記の通りかと推測しています。



庄司芳真鑑定:鑑定は庄司芳真となっています。父?庄司竹真は池田泰真の弟子であり、是真とともに師弟関係にあったが、現在の所定鑑定人は門下、もしくは子息のの庄司芳真であり、その前が庄司竹真でした。庄司竹真鑑定の柴田是真の作品は数多くあります。

庄司芳真:漆芸家。東京生。名は芳夫。蒔絵を専門とし、文化庁美術工芸課重文修理主任技師として活躍。京都工芸美術協会員。文化財功労者。勲五等瑞宝章受章。平成5年(1993)歿、95才。柴田是真の所定鑑定人。

庄司竹真の略歴はインターネットなどで調べることは可能で下記のとおりです。当方の柴田是真の幾つかの作品にも庄司竹真の鑑定が付いています。

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庄司竹真:柴田是真の門人。嘉永7年(1854年)3月に江戸・浅草に生まれる。本名は餘四郎。司寛庵とも号した。始めは蒔絵を志して明治初年当時、中山胡民の亡き後の蒔絵第一人者であった是真に入門する。是真門下では高弟の池田泰真が蒔絵の後継者として薬研堀派をなしていたが、他に鑑画会での活躍が知られる高橋応真、夭折した松野応真らがいて、竹真も含めて十哲と呼ばれた。竹真は蒔絵より日本画に優れていたため、29歳の時から日本画を専門にするようになり、是真の次男の柴田真哉を指導する立場となった。明治10年(1877年)の第1回内国勧業博覧会に蒔絵「月に船図」を出品、明治14年(1881年)の第2回内国勧業博覧会に「月下吹笛の図」を出品、明治17年(1884年)の第2回内国絵画共進会に「山水」、「花鳥」を出品、褒状を得ている。明治20年代前半には日本美術協会を中心に活躍したが、明治24年(1891年)の日本青年絵画協会設立の際には真哉を後見して協会結成に尽力した。また、明治25年(1892年)、日本青年絵画協会第1回共進会には25名の審査員のひとりに選ばれ、その後開催された同協会主催の共進会においては青年審査員を務めた。この日本青年絵画協会は邨田丹陵、寺崎広業ら多くの画家が20代前半の若手画家であったので、壮年の30代半ばであった竹真が実質的にこの協会の要であった。明治28年(1895年)4月の日本青年絵画協会第4回共進会に出品した「夏景山水」が二等褒状を得た。また、帝国絵画協会や巽画会の会員として参加、活躍した。

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箱表の箱書は下記のとおりですが、箱裏には「富田幸次郎」の略歴の書付が貼られています。

 

箱裏の印章との関連は不明ですが、「富田幸次郎」旧蔵の作品かもしれません。印章は「雙?川書画蔵印?」かな? 「富田幸次郎」の号は「双(雙)川」です。



富田幸次郎の略歴は下記のとおりです。

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富田幸次郎:(とみた こうじろう)明治5年10月1日(1872年11月1日) ~昭和13年(1938年)3月23日)は日本の新聞人、政治家、第32代衆議院議長、双川と号した。
1872年(明治5年)10月1日、高知県安芸郡川北村(現・安芸市)に生まれた。川北小学校を出て芸陽学舎卒業。安芸地方の教員になる。
1887年(明治20年)代末頃土陽新聞記者になり日露戦争の従軍記者に選ばれたが土陽新聞の内紛(中央派vs郡部派の争い)により退社。
1904年(明治37年)9月同志、岡本方俊、野中楠吉、杉駸三郎、藤戸達吾らと高知新聞を興し、その主筆となった。対向紙土陽新聞と筆を競いつつ次第に声望を高めた。
1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙に故郷の高知県から立候補して初当選。その後も第14回を除いて毎回当選、不敗の選挙地盤を構築する。党籍は憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党と変移しそれぞれの時期において党の重要ポストに就く。民政党の総務や幹事長となると党内外の取りまとめや交渉に独自の手腕を発揮した。1931年(昭和6年)に民政党を離党し国民同盟の結成に参加したが、程なく民政党に復党、1933年(昭和8年)党の常任顧問になった。また帝国通信社、日本高速度鋼、日本紡紙機等の各社長になる。1936年(昭和11年)5月第32代衆議院議長に選ばれる。在職中の1938年(昭和13年)3月23日、67歳で没した。
日本においてバスケットボールの普及と発展に尽力した富田毅郎は幸次郎の息子である。



文人政治家として多忙な日々を送る傍ら、俳句や書に深い造詣を持ち、その俳号も安芸川・伊尾木川に挟まれたふるさと川北を懐かしんで「双(雙)川」と号したといわれています。

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なお富田幸次郎には同姓同名に人物がいます。その人物ははボストン美術館アジア部名誉部長を務めた方で、明治39(1906)年京都市立美術工芸学校を卒業し、同校専攻科において漆芸研究中、農商務省海外実業練習生に選ばれ、同時に京都市嘱託として渡米し、ボストンに留学しています。ボストン美術館には勤続56年にわたり、この間専ら東洋美術の収集、整理と紹介につとめました。 こちらの人物かと思いましたが、おそらくこの人物とは違うのでしょう。



*作品の出来、鑑定からも柴田是真実の真作と判断していますが、如何柴田是真には贋作があまりにも多く、断定するのは至難のわざ、当方の我楽多のひとつと思っていいでしょう。




















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