本日は、当方で継続して蒐集している画家のひとりである「山元春挙」の若年の作とされる作品の紹介です。
巌頭稚松図 山元春挙筆
絹本水墨軸装 軸先象牙 合箱二重箱
全体サイズ:横530*縦1925 画サイズ:横405*縦1095
本ブログでは繰り返しの記事とはなりますが、あらためて山元春挙の画歴は下記のとおりです。
**********************************
山元春挙(やまもと しゅんきょ):明治4年11月24日(1872年1月4日)~昭和8年(1933年)7月12日)。明治から昭和初期にかけ活動した円山四条派の日本画家。本名は金右衛門。幼名は寛之助。別号に円融斎、一徹居士。竹内栖鳳と共に、近代京都画壇を代表する画家である。雄大な山岳風景を題材に写実的で壮大なスケールの作品を次々と発表、新時代の到来を感じさせる革新的な画家として人気を博しました。
**********************************
補足
山本春挙は大津出身で明治4年生まれ、昭和8年没、享年62歳。野村文挙、森寛齋の門に学び、京都絵画専門学校の教授となります。文展に出品し、大正6年に帝室技芸員、大正8年には帝国美術院会員となっています。さらには仏国勲章を叙されています。
滋賀県滋賀郡膳所町(現在の大津市中庄付近)で生まれていて、祖父は、戦前の修身教科書で勤勉な商人の鏡として紹介された高田善右衛門です。
打出小学校卒業後、12.3歳で遠縁にあたる京都の日本画家である野村文挙に入門し、その後文挙が上京したため、明治18年(1885年)文挙の師森寛斎に学んでいます。翌年の京都青年絵画共進会に「呉孟」「菊に雀」を出品、一等褒状を受けています。
*おそらくこの頃の作でないかと推定していますが、確証はありません。
明治24年(1991年)、竹内栖鳳、菊池芳文らと青年絵画懇親会を結成。
同年、京都私立日本青年絵画共進会の審査員となり「黄初平叱石図」(西宮市大谷記念美術館蔵)を出品、二等賞銀印となっています。
明治27年(1994年)に師寛斎が亡くなり、同年如雲社の委員となります。
明治32年(1899年)京都市立美術工芸学校の教諭となります。
翌年、画塾同攻会(1909年に早苗会と改称)を組織し、展覧会を開いています。
*「法塵一掃」 1901(明治34)年 滋賀県立美術館蔵
**同上部分図
明治34年(1901年)第7回新古美術品展に出品した「法塵一掃」が1等2席となり、春挙の出世作となりました。
明治40年(1907年)文展開設にあたり、竹内栖鳳らと共に審査委員を命ぜられます。
大正6年(1917年)6月11日帝室技芸員に任命されます。
同年、故郷の近くに別荘・蘆花浅水荘(国の重要文化財)を営み、のち庭内に記恩寺を建立、寛斎と父の像を安置しています。
大正8年(1919年)帝国美術院会員となります。この頃、地元膳所焼の復興を目指し、初代伊東陶山・岩崎建三らと新窯を開いています。
*膳所焼については本ブログでの作品紹介煮て詳細に記しています。
大正11年(1922年)パリ日仏交換展に「義士隠栖」(三の丸尚蔵館蔵)・「秋山図」を出品し、サロン準会員となっています。
大正15年(1926年)フランス政府より、シュヴァリエ・ドラ・レジョン・ドヌール勲章を授与されました。
昭和3年(1928年)大嘗祭後の大饗の席に用いる「主基地方風俗歌屏風」を制作しています。
昭和8年7月12日死去。享年63。15日従四位に叙せられ、戒名は「奇嶽院春挙一徹居士」。墓は等持院にあります。
画風は、四条派の伝統を受け継ぎつつも西洋の刺激を受け、墨彩や色彩表現を豊麗さへと徹底的に純化した表現に特色があります。こうした画風は、千總など絵を享受する京の大店に支持されました。さらには明治天皇も春挙のファンで、亡くなる際、床の間に掛かっていたのは春挙の作品だったというのは有名な逸話です。
25年以上前に郷里に新築した男の隠れ家の玄関脇に自然に生えてきた松。今では屋根からの落雪のも耐えて大きく成長しましたが、その時の稚松を思い出させてくれる作品です。このことが本作品を入手した大きな理由です。山元春挙もまた、この作品を描いた後、大成した画家となっていきます。