作品を整理するのにアナログ的な資料は絶対に必要ですが、その主な理由は作品を複数同時に並べて調査する必要性が高いからです。むろん並行してこのブログや作品データのようにデジタル保存も検索スピードの面から必要です。
デジタル保存は入手と共に終了させているのですが、アナログ保存は順次プリントして整理しながら現在進行形です。再調査することも多く、真贋の判断も含めて進められます。
真作の多い画家もあれば、怪しげな作品の多い画家も多く、整理しながら反省し、不要な作品の処分も進めていくことになります。蒐集をすすめていくと気に入った作品をひとつ手元に置くためには多数の作品の駄作が積み上がるものと思うようになりました。結局飾って愉しむ作品は少数ということです。
さて本日の作品は平櫛田中作の福聚大黒天尊像ですが、平櫛田中作の福聚大黒天尊像の作品は「その4」となります。
*後日「その5」の紹介が予定されています・・・・
福聚大黒天尊像(中) その4 平櫛田中作 昭和26年頃
昭和26年(1951年)79歳 背面&台座裏に彫銘 誂え箱
作品サイズ:高さ165*幅150*奥行150
同型の作品が昭和25年頃から作られ、極彩色の作品が多いようです。彩色が抑えられたもの、ブロンズ色のみの作品等が幾つかあるようですが、やはり極彩色の作品が人気が高いのでしょう。
彩色では平野富山とのコラボが有名ですが、平野富山が平櫛田中の作品に彩色するようになったのは「鏡獅子」の作品以降かもしれません。本作品が平野富山とのコラボかどうかは不明です。
本作品には共箱がなく、おそらく無くしたものと推定されますが、出来や彩色、裏面や台座裏の彫銘から真作と判断され、当方の年代の解る「その2」と同型のことから昭和26年頃の作ではないかと推定しています。
*共箱のない作品はときおりみかけますが、作品を飾っておく際に共箱を別にしまっておいて消失するのでしょう。埃や退色の対策として一緒に飾るほうがいいのでしょう。
「福聚大黒天尊像 その2」は「福聚大黒天尊像 その1」と同じく昭和26年(1951年)、79歳頃の作です。
後年の共箱には下記のような平櫛田中の書付のある作品があります。(最後に紹介している作品の例など)
「このつちはたからうちだすつちならで
のらくらもののあたまうつうち
以上大黒さんのおことば也
諸人堅可守之」
訳すと
「この槌は宝を打ち出す槌ではなく、愚者の頭を打つ槌
以上、大黒さんのお言葉なり。もろびと、堅くこれを守るべし。」
ということですね。このことは他の投稿記事にても記述しています。
107歳でその生涯を終えた平櫛田中は、岡倉天心に師事し、戦中に東京美術学校の教授となり後進を指導、戦後、実力と功績が高く評価され1962年に文化勲章を受章しています。
平櫛田中の木彫に彩色を施す作風は当時、革新的であり、国立劇場に収蔵される「鏡獅子」(1958年)は、その集大成といわれています。
晩年期に平櫛田中は、木彫彩色の大黒天尊像を数多く制作し、結果的に平櫛の代表的な作品として挙げられています。
この作品は、年齢と共に木彫・彩色ともに高高度に熟成された完成度を見せており、とくに90歳代の頃がいい出来となっているようです。本作品はおそらく80歳前後の作と推定されます。
白いお顔もある大黒さまですが、紅顔になっていたり、木地そのままの顔の作品もあります。いかにも福々しく豊かな表情が麗しく、身近に飾って商売繁盛の縁起の良いものとされています。
共箱がないので廉価にて入手しましたが、市場では意外に高値で取引されている作品です。
当方の所蔵作品である「その2」と比較してみましょう。
福聚大黒天尊像 平櫛田中作 昭和26年 その2(中)
昭和26年(1951年)79歳 共箱
作品サイズ:高さ165*幅180*奥行
台座底の彫銘はほぼ「その2」と「その4」は同じです。
裏面の袋にも彫銘があります。こちらは「その2」と「その4」(右写真)との比較になります。
解りにくいので「その2」と「その4」を並べてみました。
今回入手した作品と同じですね。
彫銘もほぼ同じです。
彩色に少しの違いがあります。
なお知人が所蔵していた作品は下記の作品ですが、思文閣に200万にて売却されています。
福袋大黒天像 平櫛田中作 昭和40年作
昭和40年(1965年) 94歳作 共箱
作品サイズ:高さ160*幅150*奥行140
ここまで出来の良い作品はいつになったら蒐集できるのか、まだ鍛錬が足りないようです。
前述のように箱に書き付けのある作品には下記の写真のような作品が在ります。
参考作品
説明書から96歳の時の作のようです。
カタログの価格は300万円・・・、とても高い作品群ですね
彩色彫刻は戦後の平櫛田中の特徴のひとつですね。近代以降、日本の彫刻界では西欧彫刻からの影響で、日本古来の彩色を邪道とする風潮がありました。平櫛田中は彩色を担当して平野富山と共に、そのような風潮の中にあって、日本古来の彫刻にあった鮮やかな色彩を蘇らせることに大いに影響を与えました。
デジタル保存は入手と共に終了させているのですが、アナログ保存は順次プリントして整理しながら現在進行形です。再調査することも多く、真贋の判断も含めて進められます。
真作の多い画家もあれば、怪しげな作品の多い画家も多く、整理しながら反省し、不要な作品の処分も進めていくことになります。蒐集をすすめていくと気に入った作品をひとつ手元に置くためには多数の作品の駄作が積み上がるものと思うようになりました。結局飾って愉しむ作品は少数ということです。
さて本日の作品は平櫛田中作の福聚大黒天尊像ですが、平櫛田中作の福聚大黒天尊像の作品は「その4」となります。
*後日「その5」の紹介が予定されています・・・・
福聚大黒天尊像(中) その4 平櫛田中作 昭和26年頃
昭和26年(1951年)79歳 背面&台座裏に彫銘 誂え箱
作品サイズ:高さ165*幅150*奥行150
同型の作品が昭和25年頃から作られ、極彩色の作品が多いようです。彩色が抑えられたもの、ブロンズ色のみの作品等が幾つかあるようですが、やはり極彩色の作品が人気が高いのでしょう。
彩色では平野富山とのコラボが有名ですが、平野富山が平櫛田中の作品に彩色するようになったのは「鏡獅子」の作品以降かもしれません。本作品が平野富山とのコラボかどうかは不明です。
本作品には共箱がなく、おそらく無くしたものと推定されますが、出来や彩色、裏面や台座裏の彫銘から真作と判断され、当方の年代の解る「その2」と同型のことから昭和26年頃の作ではないかと推定しています。
*共箱のない作品はときおりみかけますが、作品を飾っておく際に共箱を別にしまっておいて消失するのでしょう。埃や退色の対策として一緒に飾るほうがいいのでしょう。
「福聚大黒天尊像 その2」は「福聚大黒天尊像 その1」と同じく昭和26年(1951年)、79歳頃の作です。
後年の共箱には下記のような平櫛田中の書付のある作品があります。(最後に紹介している作品の例など)
「このつちはたからうちだすつちならで
のらくらもののあたまうつうち
以上大黒さんのおことば也
諸人堅可守之」
訳すと
「この槌は宝を打ち出す槌ではなく、愚者の頭を打つ槌
以上、大黒さんのお言葉なり。もろびと、堅くこれを守るべし。」
ということですね。このことは他の投稿記事にても記述しています。
107歳でその生涯を終えた平櫛田中は、岡倉天心に師事し、戦中に東京美術学校の教授となり後進を指導、戦後、実力と功績が高く評価され1962年に文化勲章を受章しています。
平櫛田中の木彫に彩色を施す作風は当時、革新的であり、国立劇場に収蔵される「鏡獅子」(1958年)は、その集大成といわれています。
晩年期に平櫛田中は、木彫彩色の大黒天尊像を数多く制作し、結果的に平櫛の代表的な作品として挙げられています。
この作品は、年齢と共に木彫・彩色ともに高高度に熟成された完成度を見せており、とくに90歳代の頃がいい出来となっているようです。本作品はおそらく80歳前後の作と推定されます。
白いお顔もある大黒さまですが、紅顔になっていたり、木地そのままの顔の作品もあります。いかにも福々しく豊かな表情が麗しく、身近に飾って商売繁盛の縁起の良いものとされています。
共箱がないので廉価にて入手しましたが、市場では意外に高値で取引されている作品です。
当方の所蔵作品である「その2」と比較してみましょう。
福聚大黒天尊像 平櫛田中作 昭和26年 その2(中)
昭和26年(1951年)79歳 共箱
作品サイズ:高さ165*幅180*奥行
台座底の彫銘はほぼ「その2」と「その4」は同じです。
裏面の袋にも彫銘があります。こちらは「その2」と「その4」(右写真)との比較になります。
解りにくいので「その2」と「その4」を並べてみました。
今回入手した作品と同じですね。
彫銘もほぼ同じです。
彩色に少しの違いがあります。
なお知人が所蔵していた作品は下記の作品ですが、思文閣に200万にて売却されています。
福袋大黒天像 平櫛田中作 昭和40年作
昭和40年(1965年) 94歳作 共箱
作品サイズ:高さ160*幅150*奥行140
ここまで出来の良い作品はいつになったら蒐集できるのか、まだ鍛錬が足りないようです。
前述のように箱に書き付けのある作品には下記の写真のような作品が在ります。
参考作品
説明書から96歳の時の作のようです。
カタログの価格は300万円・・・、とても高い作品群ですね
彩色彫刻は戦後の平櫛田中の特徴のひとつですね。近代以降、日本の彫刻界では西欧彫刻からの影響で、日本古来の彩色を邪道とする風潮がありました。平櫛田中は彩色を担当して平野富山と共に、そのような風潮の中にあって、日本古来の彫刻にあった鮮やかな色彩を蘇らせることに大いに影響を与えました。