
今では評価の低い南画ですが、その南画の潮流を受けた画家には佳作を遺している画家も数多くいます。本ブログで取り上げているのが中林竹洞・竹渓父子、釧雲泉、富岡鉄斎、天野方壺、斎藤畸庵、日根対山らですが、その他にも佳作を遺している画家はいます。本日は伊予画壇に足跡を遺している三好藍石の作品を紹介します。

本作品で三好藍石の作品は2作品目ですが、最初に紹介した「春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆 その1」(2016年1月13日 投稿)の作品は表具を改装しなくてはいけない作品ですが、資金上の都合でまだ改装に至っておりません
春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆 その1 明治40年(1907年)
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1885*横535 画サイズ:縦1270*横415

今回の作品の整理のため上記の三幅対を収納している箱から引っ張り出してきました。正直なところ改装するのに資金を投じる価値があるのかどうか迷っていますが、今回の作品を観て改めて三好藍石の画力を見直した次第です。
それでは本日紹介する作品です。
雪景山水図 三好藍石筆 その2 明治34年(1901年)
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1950*横570 画サイズ:縦1178*横427

現在の愛媛県を中心として伊予で栄えた南画については下記のとおりです。本ブログでおなじみの天野方壺についても伊予南画を語る上では外せません。
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吉田蔵澤(1722-1802)やその門人たちによって確立されていった伊予南画は、しだいに広がりを見せる。小松藩絵師となった森田南濤(1808-1872)は文晁派の春木南湖に学び、その流れは門人の林涛光(1832-1913)によって引き継がれた。
伊予の朱子学者・近藤篤山に学んだ長尾慶蔵(1834-1872)も南画をよくした。さらに、伊予南画の双璧と謳われた天野方壺(1824-1895)と続木君樵(1835-1883)の出現により、伊予南画は全盛を迎える。

全国的にみると、その後の南画は、幕末から明治初期にかけて衰退していくことになるのだが、伊予の地にあっては、三好藍石(1838-1923)や野田青石(1860-1930)らの活躍は、昭和初期になっても色あせることはなく、現代南画の世界においても、日本南画院の設立に参加した矢野橋村(1890-1965)らへと連綿と続いている。
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賛には「□東駆□ 渭難埋棹雖 何如閉門者 不識風雪寒 辛丑□首人口倣沈石田筆意 藍石好信 押印」とあります。辛丑とありますので明治34年(1901年)63歳頃の作と推定されます。意味は現在はまださっぱり・・・。

下記の経歴によると「60歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行く。以後、彼は在阪20年、各地の画人と交流、研鑽を深め、多くの名作を残し、当地南画界の雄として、彼の生涯で最も充実した画人生活を送る。」という時期の作品となります。

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三好藍石:天保九年(1838)徳島県池田町に生まれ、川之江の素封家三好家に迎えられ養子となる。名は信、字は小貞、通称を旦三といい、藍石は号であり、金江・螺翁・河江翁ともいう。三好家は、代々酒造業を営む近郷きっての素封家であり、彼も詩文・書画を好む学識高い文化人であった。

当家は文人墨客の出入りが絶えず、当地における文化交流の一大サロンの役を果たしていた。近くに住む続木君樵もその常連であり、彼の画業に大きい影響を及ぼすこととなる。そうした環境で悠々と文人気どりの彼は、明治初年の激動期、郷党に推され県会議員となり政界に乗り出す。さらに時代の要請で産業開発にも関心を示し、製陶・海運・養豚にまで手を出す。だが、元来は無欲恬淡の文人ゆえ、政治や実業が性に合わずすべてが失敗に終わって、さしもの名家も破産という破局を迎えることとなる。

彼が、いわゆる文人画家から脱却、専門画人としての道を選ぶのはそのころのようである。先祖から受け継いだ栄誉・資財の一切を失い、人の世のはかなさ、みにくさをつぶさに味わい、彼は60歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行く。その大阪行きをすすめ、奔走したのは当時宇摩郡長を勤める門人の手島石泉ら多くの門弟たちだという。以後、彼は在阪20年、各地の画人と交流、研鑽を深め、多くの名作を残し、当地南画界の雄として、彼の生涯で最も充実した画人生活を送る。

大阪南画壇で盛名をはせた彼は、80歳を過ぎ、郷党や門人に迎えられ郷里川之江に帰り、城山山麓の小画禅堂(清風明月草堂)に落ちつき、画禅三昧の老境を過ごし、大正12年(1923)10月20日、86歳で没す。

筆法はあくまで南画の伝統描法にのっとり、一筆一筆を誠実に、また巧みな雲姻による緊密な構成で生々しい現実感をもりながら超現実の神仙境を描出する。その卓抜の画技は、長年にわたる彼の厳しい求道・修練の賜物であり、いつまでも郷土人士の心をとらえて離さない。藍石の影響を受けた同郷の画人に大西黙堂・安藤正楽がおり、また東の藍石、西の青石と称された八幡浜の野田青石がいる。

天野方壷と続木君樵は明治初頭における愛媛画壇の双璧といわれていますが、君樵は、帰朝後郷里に落ちつき、作画を楽しみながら画塾を開き後進を指導、そこに育った三好藍石ら多くの門弟たちは、やがて以後の愛媛画壇を風靡するに至る。一方、方壷は、郷土を離れ全国各地を歴遊、中央画壇で華々しい活躍をするが、一人の門弟ももたず、専らおのが画業に専念する。その間、どれほど郷里に滞在し、どれだけの影響力を持ち得たのか。その点資料が乏しく推測の域を出ないが、彼は、専ら作品により郷土人士の心をとらえ、その作風で愛媛画壇を風扉したのではなかろうか。
三好藍石の代表作
*「寒霞渓秋景之図」:コロンブス記念博覧会出品(54歳作)
*「祖谷山蔓橋真景」:(55歳作)
*「老松亀鶴之図」:大正天皇御大典記念に献納
*「一品当朝之図」:天覧の作
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雪深い地に友を訪ねるという図柄でしょうか?

「倣沈石田筆意」とある「沈石田」は下記の略歴をもつ中国の画家です。
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沈石田:沈周(しん しゅう)宣徳2年11月21日(1427年12月9日)~正徳4年8月2日(1509年8月17日))。中国の明代中期の文人にして画家である。文人画の一派である呉派を興し「南宋文人画中興の祖」とされた。また蘇州文壇の元老として中国文学史上に名をとどめ、書家としても活躍した。
詩書画三絶の芸術家として後世になっても評価が高い。家訓を守り生涯にわたって仕官することなく明朝に抗隠した。 長洲県相城里(現在の江蘇省蘇州市相城区陽澄湖鎮)の出身。字を啓南、号を石田・石田翁・白石翁とした。享年83。

画は父恒吉、伯父の貞吉に学び、その後父の師でもあった杜瓊に就いた。他に趙同魯や劉珏にも教えを受けている。遥か五代の董源や巨然にまで師法し、元末四大家に私淑した。
後輩にあたる王穉登は『呉郡丹青志』で蘇州を中心に活躍した画人の中で沈周をもっとも高く評価し神品に挙げている。書は北宋の黄庭堅を宗とし、詩は陳寛に就いて学び、白居易・蘇軾・陸游を好んだ。画がなれば、詩を読み、自題したので三絶と評された。弟子には唐寅や祝允明が育ち、特に愛弟子である文徴明が沈周の跡を継ぎ呉派文人画の発展に努めた。
生前から贋作が多く真蹟は滅多にないと王世貞は伝えている(『芸苑巵言』)。また散文についても楊循吉などが高く評価している。詩文集に『石田集』がある。
沈氏は元代からの名家であり、一時没落するも曽祖父の代より家運を盛り上げ、広大な農地などの恒産を所有し富豪となった。祖父の沈澄、父の沈恒吉も学問・芸術を好み優れた人物であったが、ともに家訓に従い仕官していない。一説には沈家は元末明初に江南の大富豪であった沈万三の家系とされる。
沈万三は張士誠の外戚となっていたため、そのライバルであった明の太祖朱元璋に莫大な家産と海外貿易の権益を没収されるという痛手を受けた。また蘇州は明政府により過酷な徴税を強いられ永らく疲弊した。これらのことから、沈家は明政府を信頼せず保身の為に仕官を認めない家訓を伝えてきたと思われる。貿易商だった沈家には西域人の血が混入したようで清の銭謙益や阮元らによると沈周は彫りが深く碧眼だったと記している。

15歳の時、父から家産の収税役を引き継いだが、心の根の優しい沈周は農民をよく気遣ったとされる。27歳の時に地方官吏に推挙されるが八卦の見立てに従い仕官を避け隠逸した。以降、蘇州の農村で文芸に耽り、文房(書斎)である有竹居には文人や好事家が千客万来しその合間に芸術活動を行った。特に呉寛・都穆・文林とは交わりが深かった。書画の依頼が後を絶たずそれを消化することに日夜追われていた。人の頼みを断り切れなかったのである。非常に温厚な性格で人と争うことが全くなく、困った人はすぐに助けていた。贋作に落款を求められても拒絶することなくこれに応じ、また画工として扱われても腹を立てることなく黙ってこれに従ったという晩年はますます文名、画名ともに高まったが、家は蓄えを失いしだいに貧窮した。
*****************************************
そう沈石田と三好藍石の家系からの身の上は似ているのです。このことを知らずしてこの絵の鑑賞はあり得ませんね。中国の名画には及ばぬもの展示室にて鑑賞するのも楽しからずや・・・。
*状態のよさそうに見える本作品もまた虫食いの穴が開いています。さてこれも補修かな?

本作品で三好藍石の作品は2作品目ですが、最初に紹介した「春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆 その1」(2016年1月13日 投稿)の作品は表具を改装しなくてはいけない作品ですが、資金上の都合でまだ改装に至っておりません

春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆 その1 明治40年(1907年)
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1885*横535 画サイズ:縦1270*横415

今回の作品の整理のため上記の三幅対を収納している箱から引っ張り出してきました。正直なところ改装するのに資金を投じる価値があるのかどうか迷っていますが、今回の作品を観て改めて三好藍石の画力を見直した次第です。
それでは本日紹介する作品です。
雪景山水図 三好藍石筆 その2 明治34年(1901年)
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1950*横570 画サイズ:縦1178*横427


現在の愛媛県を中心として伊予で栄えた南画については下記のとおりです。本ブログでおなじみの天野方壺についても伊予南画を語る上では外せません。
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吉田蔵澤(1722-1802)やその門人たちによって確立されていった伊予南画は、しだいに広がりを見せる。小松藩絵師となった森田南濤(1808-1872)は文晁派の春木南湖に学び、その流れは門人の林涛光(1832-1913)によって引き継がれた。
伊予の朱子学者・近藤篤山に学んだ長尾慶蔵(1834-1872)も南画をよくした。さらに、伊予南画の双璧と謳われた天野方壺(1824-1895)と続木君樵(1835-1883)の出現により、伊予南画は全盛を迎える。

全国的にみると、その後の南画は、幕末から明治初期にかけて衰退していくことになるのだが、伊予の地にあっては、三好藍石(1838-1923)や野田青石(1860-1930)らの活躍は、昭和初期になっても色あせることはなく、現代南画の世界においても、日本南画院の設立に参加した矢野橋村(1890-1965)らへと連綿と続いている。
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賛には「□東駆□ 渭難埋棹雖 何如閉門者 不識風雪寒 辛丑□首人口倣沈石田筆意 藍石好信 押印」とあります。辛丑とありますので明治34年(1901年)63歳頃の作と推定されます。意味は現在はまださっぱり・・・。

下記の経歴によると「60歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行く。以後、彼は在阪20年、各地の画人と交流、研鑽を深め、多くの名作を残し、当地南画界の雄として、彼の生涯で最も充実した画人生活を送る。」という時期の作品となります。


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三好藍石:天保九年(1838)徳島県池田町に生まれ、川之江の素封家三好家に迎えられ養子となる。名は信、字は小貞、通称を旦三といい、藍石は号であり、金江・螺翁・河江翁ともいう。三好家は、代々酒造業を営む近郷きっての素封家であり、彼も詩文・書画を好む学識高い文化人であった。

当家は文人墨客の出入りが絶えず、当地における文化交流の一大サロンの役を果たしていた。近くに住む続木君樵もその常連であり、彼の画業に大きい影響を及ぼすこととなる。そうした環境で悠々と文人気どりの彼は、明治初年の激動期、郷党に推され県会議員となり政界に乗り出す。さらに時代の要請で産業開発にも関心を示し、製陶・海運・養豚にまで手を出す。だが、元来は無欲恬淡の文人ゆえ、政治や実業が性に合わずすべてが失敗に終わって、さしもの名家も破産という破局を迎えることとなる。

彼が、いわゆる文人画家から脱却、専門画人としての道を選ぶのはそのころのようである。先祖から受け継いだ栄誉・資財の一切を失い、人の世のはかなさ、みにくさをつぶさに味わい、彼は60歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行く。その大阪行きをすすめ、奔走したのは当時宇摩郡長を勤める門人の手島石泉ら多くの門弟たちだという。以後、彼は在阪20年、各地の画人と交流、研鑽を深め、多くの名作を残し、当地南画界の雄として、彼の生涯で最も充実した画人生活を送る。

大阪南画壇で盛名をはせた彼は、80歳を過ぎ、郷党や門人に迎えられ郷里川之江に帰り、城山山麓の小画禅堂(清風明月草堂)に落ちつき、画禅三昧の老境を過ごし、大正12年(1923)10月20日、86歳で没す。

筆法はあくまで南画の伝統描法にのっとり、一筆一筆を誠実に、また巧みな雲姻による緊密な構成で生々しい現実感をもりながら超現実の神仙境を描出する。その卓抜の画技は、長年にわたる彼の厳しい求道・修練の賜物であり、いつまでも郷土人士の心をとらえて離さない。藍石の影響を受けた同郷の画人に大西黙堂・安藤正楽がおり、また東の藍石、西の青石と称された八幡浜の野田青石がいる。

天野方壷と続木君樵は明治初頭における愛媛画壇の双璧といわれていますが、君樵は、帰朝後郷里に落ちつき、作画を楽しみながら画塾を開き後進を指導、そこに育った三好藍石ら多くの門弟たちは、やがて以後の愛媛画壇を風靡するに至る。一方、方壷は、郷土を離れ全国各地を歴遊、中央画壇で華々しい活躍をするが、一人の門弟ももたず、専らおのが画業に専念する。その間、どれほど郷里に滞在し、どれだけの影響力を持ち得たのか。その点資料が乏しく推測の域を出ないが、彼は、専ら作品により郷土人士の心をとらえ、その作風で愛媛画壇を風扉したのではなかろうか。
三好藍石の代表作
*「寒霞渓秋景之図」:コロンブス記念博覧会出品(54歳作)
*「祖谷山蔓橋真景」:(55歳作)
*「老松亀鶴之図」:大正天皇御大典記念に献納
*「一品当朝之図」:天覧の作
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雪深い地に友を訪ねるという図柄でしょうか?

「倣沈石田筆意」とある「沈石田」は下記の略歴をもつ中国の画家です。
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沈石田:沈周(しん しゅう)宣徳2年11月21日(1427年12月9日)~正徳4年8月2日(1509年8月17日))。中国の明代中期の文人にして画家である。文人画の一派である呉派を興し「南宋文人画中興の祖」とされた。また蘇州文壇の元老として中国文学史上に名をとどめ、書家としても活躍した。
詩書画三絶の芸術家として後世になっても評価が高い。家訓を守り生涯にわたって仕官することなく明朝に抗隠した。 長洲県相城里(現在の江蘇省蘇州市相城区陽澄湖鎮)の出身。字を啓南、号を石田・石田翁・白石翁とした。享年83。

画は父恒吉、伯父の貞吉に学び、その後父の師でもあった杜瓊に就いた。他に趙同魯や劉珏にも教えを受けている。遥か五代の董源や巨然にまで師法し、元末四大家に私淑した。
後輩にあたる王穉登は『呉郡丹青志』で蘇州を中心に活躍した画人の中で沈周をもっとも高く評価し神品に挙げている。書は北宋の黄庭堅を宗とし、詩は陳寛に就いて学び、白居易・蘇軾・陸游を好んだ。画がなれば、詩を読み、自題したので三絶と評された。弟子には唐寅や祝允明が育ち、特に愛弟子である文徴明が沈周の跡を継ぎ呉派文人画の発展に努めた。
生前から贋作が多く真蹟は滅多にないと王世貞は伝えている(『芸苑巵言』)。また散文についても楊循吉などが高く評価している。詩文集に『石田集』がある。
沈氏は元代からの名家であり、一時没落するも曽祖父の代より家運を盛り上げ、広大な農地などの恒産を所有し富豪となった。祖父の沈澄、父の沈恒吉も学問・芸術を好み優れた人物であったが、ともに家訓に従い仕官していない。一説には沈家は元末明初に江南の大富豪であった沈万三の家系とされる。
沈万三は張士誠の外戚となっていたため、そのライバルであった明の太祖朱元璋に莫大な家産と海外貿易の権益を没収されるという痛手を受けた。また蘇州は明政府により過酷な徴税を強いられ永らく疲弊した。これらのことから、沈家は明政府を信頼せず保身の為に仕官を認めない家訓を伝えてきたと思われる。貿易商だった沈家には西域人の血が混入したようで清の銭謙益や阮元らによると沈周は彫りが深く碧眼だったと記している。

15歳の時、父から家産の収税役を引き継いだが、心の根の優しい沈周は農民をよく気遣ったとされる。27歳の時に地方官吏に推挙されるが八卦の見立てに従い仕官を避け隠逸した。以降、蘇州の農村で文芸に耽り、文房(書斎)である有竹居には文人や好事家が千客万来しその合間に芸術活動を行った。特に呉寛・都穆・文林とは交わりが深かった。書画の依頼が後を絶たずそれを消化することに日夜追われていた。人の頼みを断り切れなかったのである。非常に温厚な性格で人と争うことが全くなく、困った人はすぐに助けていた。贋作に落款を求められても拒絶することなくこれに応じ、また画工として扱われても腹を立てることなく黙ってこれに従ったという晩年はますます文名、画名ともに高まったが、家は蓄えを失いしだいに貧窮した。
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そう沈石田と三好藍石の家系からの身の上は似ているのです。このことを知らずしてこの絵の鑑賞はあり得ませんね。中国の名画には及ばぬもの展示室にて鑑賞するのも楽しからずや・・・。
*状態のよさそうに見える本作品もまた虫食いの穴が開いています。さてこれも補修かな?

雪景山水図の賛文に興味が向いて読んでみました。
調べてみたところ、元・呉師道の「渓山雪霽図」の賛文が出典のようです。
『御定歴代題画詩類 巻二(四庫全書本)』に載っていました。
霽(雨ヘンに齋)は晴れるという意味のようです。
「橋凍(東)驅驢滑,灘澌理棹難。何如閉門者,不識風雪寒。辛丑歳首人日倣沈石田筆意 藍石好信」
文字化けしないか心配ですが、原文は
凍を東にしていますが、こうすると「橋の東」に意味が変わるんじゃないですかね。
「橋東」にした作例は他にもあるようですが。
https://chul2638.tistory.com/1977
適当に訓読して「橋凍り、駆驢(ロバ)滑り、灘澌(灘の水)理棹(行船)難し。
閉門する者は如何なるか、風雪の寒きを識らず」と読んでみました。
後の文は「辛丑の歳首人日(正月七日)、沈石田筆意に倣う」でしょうか。
歳は異体字で書いていますね。(左が山に示、右が戊の字)
私も下村為山の「平安長春図」を持っています。
下村為山はもっと評価されるべき画家ですね。松山の子規記念博物館に近年、為山の画がまとめて入ったようです。
いろいろと勉強させて下さい。
掛け軸は最近は不人気で、もっと評価されていい画家がたくさんいますね。本ブログが参考になればと思っています。
そうですか、下村為山の作品が子規記念館に・・、四国にはたびたび出かけるのですが、いつか松山に行ってみたいものです。