
年末年始に帰郷しましたが、男の隠れ家の座敷は冬の寒さが身に沁みます。寝正月と決め込むのが無難なのでしょうが、そこは好き者、自然と骨董と向き合うこととなります。

まずは研いだ後に男の隠れ家に戻しておいた刀剣の手入れです。東京の銀座で研がれた刀剣は先祖代々の男の隠れ家に戻され、価値はどうあれ子々孫々まで伝えられるようにしてあります。
欄間には思文閣の方も見ていかれてました日下部鳴鶴の額が飾ってあります。

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日下部鳴鶴:(くさかべ めいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日)~大正11年(1922年)1月27日)。
日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。 中林梧竹、巌谷一六と共に明治の三筆と呼ばれる近代書道の確立者の一人である。
中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり、それまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。
芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評されることもある。 鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3000人を数えたと言われる。また生涯で1000基の石碑を書いたとも言われ、現在も全国に300基以上の碑が残されている。中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれる。
中国書法の研究をすすめ六朝書道を基礎に独自の書風を確立し、また中国に渡航し碑文研究を深めると同時に呉昌碩などの文人と交流し、「東海の書聖」と称されたといわれている。
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欄間額などの書はまだまだ未知数の作品が飾ってあります。

「国家の基本は農に在り」・・、まさしくその通り。

男の隠れ家から引っ張り出してきた少しまともな状態の作品をいかにすべきかと算段してきました。舘岡栗山、近藤浩一朗らの欄間額の作品があります。染み抜きしたり、改装するとほどの作品はもうないようですが・・。

さて正月の床には何を飾ろうかと思案し、最近蔵から出してきた山岡鉄舟の書を飾ることにしました。何を書かれているかは当方ではさっぱり・・・
明治の立役者らの中で書で好きなのは西郷隆盛と山岡鉄舟ですね。それでも大した評価での取引ではなく、せいぜい20万程度・・。過大評価してはいけません。
三行書 山岡鉄舟筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横(未測定 大幅)

この作品は当方がまだ30代の頃に義父から見せていただいたのが最初です。のちに痛みがひどいので見かねて改装しました。

ただ改装した直後に義父が掛けようとして誤って落としていまい、掛け軸に折り目が入ってしまっています。申し訳なさそうにしていた今は亡き義父と義母を思い出させてくる懐かしい作品となりました。

山岡鉄舟はあまりにも著名なので詳細は省略します。

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山岡 鉄舟(鐵舟、やまおか てっしゅう):幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(鐵太郎、てつたろう)。諱は高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。

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下記の逸話は幕末三舟と言われた、勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の関りを如実に示すものです。
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当時の徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった。そこで、鉄舟に白羽の矢が立った。
この時、刀がないほど困窮していた鉄舟は、親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。
3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、
一、江戸城を明け渡す。
一、城中の兵を向島に移す。
一、兵器をすべて差し出す。
一、軍艦をすべて引き渡す。
一、将軍慶喜は備前藩にあずける。
というものであった。
このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。これによって奇跡的な江戸無血開城への道が開かれることとなった。
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今を生きる我々は常に先人の業績があって存在するものです。過去を知らずして今を生きるのは先人らに失礼です。骨董を通して少しでも先人の業績を知り、今をゆたかに生きていきたいものです。明治維新当時の書は市場に腐るほどありますので、厳選して楽しむといいかと思います。

まずは研いだ後に男の隠れ家に戻しておいた刀剣の手入れです。東京の銀座で研がれた刀剣は先祖代々の男の隠れ家に戻され、価値はどうあれ子々孫々まで伝えられるようにしてあります。
欄間には思文閣の方も見ていかれてました日下部鳴鶴の額が飾ってあります。

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日下部鳴鶴:(くさかべ めいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日)~大正11年(1922年)1月27日)。
日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。 中林梧竹、巌谷一六と共に明治の三筆と呼ばれる近代書道の確立者の一人である。
中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり、それまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。
芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評されることもある。 鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3000人を数えたと言われる。また生涯で1000基の石碑を書いたとも言われ、現在も全国に300基以上の碑が残されている。中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれる。
中国書法の研究をすすめ六朝書道を基礎に独自の書風を確立し、また中国に渡航し碑文研究を深めると同時に呉昌碩などの文人と交流し、「東海の書聖」と称されたといわれている。
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欄間額などの書はまだまだ未知数の作品が飾ってあります。

「国家の基本は農に在り」・・、まさしくその通り。

男の隠れ家から引っ張り出してきた少しまともな状態の作品をいかにすべきかと算段してきました。舘岡栗山、近藤浩一朗らの欄間額の作品があります。染み抜きしたり、改装するとほどの作品はもうないようですが・・。

さて正月の床には何を飾ろうかと思案し、最近蔵から出してきた山岡鉄舟の書を飾ることにしました。何を書かれているかは当方ではさっぱり・・・

明治の立役者らの中で書で好きなのは西郷隆盛と山岡鉄舟ですね。それでも大した評価での取引ではなく、せいぜい20万程度・・。過大評価してはいけません。
三行書 山岡鉄舟筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横(未測定 大幅)


この作品は当方がまだ30代の頃に義父から見せていただいたのが最初です。のちに痛みがひどいので見かねて改装しました。

ただ改装した直後に義父が掛けようとして誤って落としていまい、掛け軸に折り目が入ってしまっています。申し訳なさそうにしていた今は亡き義父と義母を思い出させてくる懐かしい作品となりました。

山岡鉄舟はあまりにも著名なので詳細は省略します。



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山岡 鉄舟(鐵舟、やまおか てっしゅう):幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(鐵太郎、てつたろう)。諱は高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。

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下記の逸話は幕末三舟と言われた、勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の関りを如実に示すものです。
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当時の徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった。そこで、鉄舟に白羽の矢が立った。
この時、刀がないほど困窮していた鉄舟は、親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。
3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、
一、江戸城を明け渡す。
一、城中の兵を向島に移す。
一、兵器をすべて差し出す。
一、軍艦をすべて引き渡す。
一、将軍慶喜は備前藩にあずける。
というものであった。
このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。これによって奇跡的な江戸無血開城への道が開かれることとなった。
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今を生きる我々は常に先人の業績があって存在するものです。過去を知らずして今を生きるのは先人らに失礼です。骨董を通して少しでも先人の業績を知り、今をゆたかに生きていきたいものです。明治維新当時の書は市場に腐るほどありますので、厳選して楽しむといいかと思います。