夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

改装完了 弁財天図 田能村直入・小斉・小篁筆 その2

2013-10-15 06:12:16 | 掛け軸
昨日は家内のお茶の稽古仲間に拙宅まで集まっていただき、ささやかながらお茶会を催しました。一昨日は家内が緊急にて病院へ、私はお祭りで食いすぎて下痢という最悪状態・・。家内共々、万全ではなく、なかなか思うような接客が出来ませんでしたが、皆さんのお力を借りてなんとか終了しました。後片付けまでしっかりとしていただきました

その報告は後日として、本日は改装完了の作品の投稿です。

賛は直入、弁天様の絵は小斎 、岩と水は小篁が分担して製作した貴重な作品かと思われます。合作と言うとあまり緻密に描かれることもなく、駄作が多いのですが、小斎が還暦という祝いもあってのことか良い出来の作品に仕上がっていると思います。あまりにも痛みがひどいので改装することとしました。このたび改装が完了しましたので、投稿します。


以下は前回のブログの記事からです。表具前の状態はリンク先を参考にしてください。

弁財天図 田能村直入・小斉・小篁筆合箱
全体サイズ:縦1880*横487 画サイズ:縦1067*横360



賛より田能村直入が92歳の時の作品であり、1905年の作品と判断される。賛は「弁財天女楽琵琶 心似春風顔似花 孤嶌乾坤廣無極 性来福壽妙生涯 明治三六年乙巳夏日謹題於東畫神堂 九十二齢翁真徹人」とあります。さらに右下には田能村小斎による落款があり「華甲小斎田順敬寫」とあり、弁財天の絵を描いたのは小斎であり、60歳の時の作であることが分かる。左下には田能村小篁により「小篁逸士□寫水石」と落款があり、岩と水を小篁が26歳と時に描いたことが分かる。




弁財天:仏教の守護神である天部の神々の1つ。インドの神でヒンドゥー教の女神として信仰されているサラスヴァティー(Sarasvatī) が仏教に取り込まれてこのように呼ばれている。また、日本の神道にも取り込まれている。また、弁天とも呼ばれ、七福神の一員となっている。元々は古代インドの河神として音楽や学芸などの神として信仰されていたが、日本では「才」が「財」の音に通じることから財福をもたらす女神として信仰されている。





田能村直入:生年: 文化11.2.15 (1814.4.5) 没年: 明治40.1.21 (1907) 明治期の南画家。豊後国竹田(大分県竹田市)生まれ。本姓三宮,幼名松太のち伝太。9歳のとき,田能村竹田に入門し,南画と唐詩選を学ぶ。さらに国学,陽明学,武術などを幅広く修学,竹田にその才を愛され,田能村の姓を継いだ。竹田没後,南宗画で家を興し,堺,大坂に住む。明治1(1868)年京都に移り,以後名を小虎,号を直入とした。同13年京都府画学校設立とともに,翌年その初代摂理(校長)となり,24年には自ら自宅に南宗画学校を開いた。近代の南画は京都で継続的発展をみたが,直入はその明治期の中心的人物であった。

田能村小斎 :1845-1909 幕末-明治時代の画家。弘化2年生まれ。播磨(兵庫県)の人。養父の田能村直入に文人画をまなぶ。武道にも長じ,豊後(大分県)岡藩主につかえ,維新後は大阪,京都ですごした。明治42年12月31日死去。65歳。本姓は大野。名は順。字は子慎。通称は順之助。

田能村小篁 :1879-1910 明治時代の画家。明治12年生まれ。祖父田能村直入と父小斎に文人画をまなんだ。明治43年5月27日死去。32歳。本名は直太郎。



父が絵を描き、息子が手伝い、祖父が賛を入れた・・。どのような心情だったのでしょうか。そうそう普通に有るものではなく、微笑ましい光景であったことを願わずにはいられません。賛からも幸福な思いが伝わってきます。

家業を代々維持することは非常に難しいことです。敬意を表して改装しようかと思っています。→もとい、改装しました。

ただ、これから5年後には3人とも亡くなってしまいます。人生は無常と向き合うことも求められます。

以上が前回の記事のままです。表具がきたいないままにするなど神様を粗末にしてはいけません。

そうそう、昨日のお客様は弁天様揃い・・


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