夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

宝珠図 寺崎廣業筆 その20

2013-10-14 06:10:29 | 掛け軸
本日は寺崎廣業の22作品目の投稿ですが、肉筆での真作は20作品目ですので、「その20」とします。


宝珠図 寺崎廣業筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱 
全体サイズ:横465*縦1195 画サイズ:横350*縦360



文献参考の落款の字体から解りますように明治30年頃の作品と推察されます。

印章は「廣業」の朱文丸印が押印されていますが、確認は未了ですが、真作に相違ないでしょう。

 

宝珠の図柄に表具の一文字は「福寿」と目出度い図柄です。




宝珠:仏教で説く宝の玉。宝珠は災難を除き、濁水を清くする徳があるとされ(ために浄摩尼とも)、とくに種々の物を意の如くに出すので如意宝珠ともいいます。

竜王や摩竭魚の脳中にあるとか、仏舎利の変じたものなどともいわれており、日本画によく画題として描かれる。



寺崎廣業の補足


寺崎廣業:慶応2年生まれ。廣業の父は佐竹家に仕えた家老職でしたが維新後の生活は貧しく、廣業が15歳の頃には横手市で氷水を売って親の手助けをしていたという話もある。

はじめ狩野派の小室怡々斎に、のちに四条派の平福穂庵、南画家の菅原白龍に出会い、3つの伝統的な画法を学ぶ.さらには明治22年 (1889) 東陽堂への入社。廣業は穂庵の後任として中国や日本の古名画や浮世絵などの版下縮図に取り組み、各派の特徴を学び取りながらめきめきと腕を上げていった。

明治23年、第3回内国勧業博覧会に出品した「東遊図」が褒状を受けた。翌年には日本青年絵画協会 (会頭岡倉天心)の創立へ参加した。上京後わずか数年にして目覚しい活躍をし、明治30年には東京美術学校助教授となったが、翌年には東京美術学校騒動により共に辞職した橋本雅邦や横山大観らとともに日本美術院を創立した。

大観や菱田春草らが朦朧体を試みて保守的な画壇から非難を浴びる中、廣業は伝統的な画法を生かした作品を発表、各方面からの賞賛を得た。その後廣業は東京美術学校へ教授として復職、さらに日本最初の官設美術展である文展で審査委員をつとめ、自らの天籟画塾では門弟が300人にもなるなど、日本画壇を支える太い柱となった。

好きな信州に別荘をかまえて絵を描き、いよいよこれからの日本画壇を先導するかに見えたが、帝室技芸員に任命された2年後の大正8年(1919)、53年の短い生涯を閉じた。


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