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都内での結婚式のため、今年の夏はちょっと遅くなりましたが、本日より帰郷します。新たな作品との出逢いあることを期待していますが、今回の帰省は郷里での法事や男の隠れ家の改修の打ち合わせもあり、ゆっくり過ごせないようです。
さて本日紹介する作品ですが、寺崎廣業が好んで描いている画題のひとつに「陶淵明図」がありますが、本日は寺崎廣業が描いた「陶淵明図」の作品を紹介します。
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この作品は下記の漢詩に基づいて描いている可能性?があります。
松下と陶淵明の漢詩の例:故人賞我趣 故人 我が趣を賞し
挈壺相與至 壺を挈えて相與に至る
班荊坐松下 荊を班いて松下に坐し
數斟已復醉 數斟にして已に復た醉ふ
父老雜亂言 父老は雜亂して言ひ
觴酌失行次 觴酌 行次を失す
不覺知有我 我の有るを知るを覺えず
安知物爲貴 安んぞ知らん物の貴しと爲すを
悠悠迷所留 悠悠たるものは留まる所に迷ふも
酒中有深味 酒中に深味あり
挈壺相與至 壺を挈えて相與に至る
班荊坐松下 荊を班いて松下に坐し
數斟已復醉 數斟にして已に復た醉ふ
父老雜亂言 父老は雜亂して言ひ
觴酌失行次 觴酌 行次を失す
不覺知有我 我の有るを知るを覺えず
安知物爲貴 安んぞ知らん物の貴しと爲すを
悠悠迷所留 悠悠たるものは留まる所に迷ふも
酒中有深味 酒中に深味あり
大意:知人たちは私の酒好きなのを知り、壺を携えてみなでやってきた、
むしろをしいて松の下に坐し、数献を傾ければたちまちに酔う、
老人たちの言葉は乱雑になり、杯が乱れ飛んで序列も何もなくなった。
私も自分のことを忘れて飲む、なんで世間の価値などにかかわっていら
れようか、名利に走る者たちはこせこせと自分の地位にしがみついてい
るが、酒中にこそ物事の本質が見えてくるのだ
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むろんこの漢詩を意識して寺崎廣業がこの作品を描いたかどうかは知りませんが、この漢詩を知っていて鑑賞すると一味違うかも・・・。
陶淵明図 寺崎廣業筆 その133
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2160*横645 画サイズ:縦1290*横500
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冒頭で述べたように寺崎廣業は「陶淵明図」をたびたび描いています。
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陶 淵明(とう えんめい、365年(興寧3年)~ 427年(元嘉3年)11月)
陶淵明は中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者です。字は元亮。または名は潜、字が淵明。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれました。潯陽柴桑(現江西省九江市)の人であり、郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれています。
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陶淵明の四言詩「子に命(なづ)く」によると、その祖は神話の皇帝、帝堯(陶唐氏)に遡るようです。祖先は、三国呉の揚武将軍・陶丹であり、陶丹の子で東晋の大司馬・長沙公の陶侃は曾祖父にあたり、祖父の陶茂は武昌太守となったということのようですが、詳しい事は不明とされます。母方の祖父には孟嘉がいます。いずれも門閥が重視された魏晋南北朝時代においては、「寒門(単家)」と呼ばれる下級士族の出身でした。
陶淵明は393年、江州祭酒として出仕するも短期間で辞め、直後に主簿(記録官)として招かれたが就任を辞退します。399年、江州刺史・桓玄に仕えるも、401年には母の孟氏の喪に服すため辞任しています。404年、鎮軍将軍・劉裕に参軍(幕僚)として仕えますが、これらの出仕は主に経済的な理由によるものであり、いずれも下級役人としての職務に耐えられず、短期間で辞任しています。
405年秋8月、彭沢県(九江市の約90km東)の県令となりますが、80数日後の11月には辞任して帰郷します。以後、陶淵明は隠遁の生活を続け二度と出仕せず、廬山の慧遠に師事した周続之、匡山に隠棲した劉遺民と「潯陽の三隠」と称されました。隠棲後の出来事としては、408年、火事にあって屋敷を失い、しばらくは門前に舫う船に寝泊りし、411年、住まいを南村に移すも、同年、隠遁生活の同士であった従弟の陶敬遠を喪う、という事がありました。この間も東晋および劉裕が建国した宋の朝廷から招かれますがいずれも応じなかったとされます。427年、死去。享年63。その誄(追悼文)は、友人で当時を代表する文人の顔延之によるものでした。
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現存する陶淵明の作品は、詩・散文を合わせて130余首が伝えられる。
その中でも「田園詩」と呼ばれる、江南の田園風景を背景に、官吏としての世俗の生活に背を向け、いわゆる晴耕雨読の生活を主題とする一連の作品は、同時代および後世の人々から理想の隠逸生活の体現として高い評価を得ています。隠逸への希求を主題とする作品は、陶淵明以前にも「招隠詩」「遊仙詩」などが存在し、陶淵明が生きた東晋の時代に一世を風靡した「玄言詩」の一部もそれに当てはまります。しかし、これらの作品の多くで詠われる内容は、当時流行した玄学の影響をうけ、世俗から完全に切り離された隠者の生活や観念的な老荘の哲理に終始するものでした。
陶淵明の作品における隠逸は、それらに影響を受けつつも、自らの日常生活の体験に根ざした具体的な内実を持ったものとして描かれており、詩としての豊かな抒情性を失わないところに大きな相違点があるとされます。
陶淵明は同時代においては、「古今隠逸詩人の宗」という評に見られるように、隠逸を主題とする一連の作品を残したユニークな詩人として、梁の昭明太子の「余、其の文を愛し嗜み、手より釈く能はず、尚ほ其の徳を想ひ、時を同じくせざるを恨む」ような一部の愛好者を獲得しています。
一方、修辞の方面では、魏晋南北朝時代の貴族文学を代表するきらびやかで新奇な表現を追求する傾向から距離を置き、飾り気のない表現を心がけた点に特徴があります。このような修辞面での特徴は、隠逸詩人としての側面とは異なり、鍾嶸が紹介する「世、其の質直を嘆ず」の世評のように、同時代の文学者には受け入れられなかったようですが、唐代になると次第に評価されはじめ、宋代以降には、「淵明、詩を作ること多からず。然れどもその詩、質にして実は綺、癯にして実は腴なり」のように高い評価が確立するようになります。
陶淵明には詩のほかにも、辞賦・散文に12篇の作品があります。「帰去来の辞」や「桃花源記」が特に有名です。前者は彭沢令を辞任した時に書かれたとされ、陶淵明の「田園詩人」「隠逸詩人」としての代表的側面が描かれた作品です。後者は、当時の中国文学では数少ないフィクションであり東洋版のユートピア・理想郷の表現である桃源郷の語源となった作品として名高い。他にも自伝的作品とされる「五柳先生伝」や、非常に艶やかな内容で、隠者としての一般的なイメージにそぐわないことから、愛好者である昭明太子に「白璧の微瑕」と評された「閑情の賦」などがあります。
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箱書など下記の写真のとおりです。
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下記の作品は郷里の友人から譲って頂いた作品(本ブログにて紹介済)です。
陶公図 寺崎廣業筆 大正元年(1912年)頃
絹本水墨淡彩軸装 軸先 共箱
全体サイズ:縦2095*横520 画サイズ:縦1192*横397
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ちなみに菊を題材にした陶淵明の作品には下記のものがあります。
「采菊東籬下 悠然見南山 山気日夕佳 飛鳥相共還 此中有真理 欲弁巳忘言」
「采菊東籬下 悠然見南山 山気日夕佳 飛鳥相共還 此中有真理 欲弁巳忘言」
東の垣根の下で菊を採り、悠然とした気持ちで南の山を眺める、山が夕日に美しく染まり、鳥はみんな連れ立って帰っていく。この自然の中に本当の真理が隠れている。これは言葉では言い表せない。
この詩をもとに明治維新の偉人 高杉晋作が漢詩をつくっています。
「繁文為累古猶今 今古誰能識道深 采菊采薇真的意 人間萬事只其心」
意味は「意味は昔も今も変わりなく、山と詰まれる理はあれど、今も昔も道を識る、事の深きを誰か知る。采菊采薇の歌のもつ本当の意味はすべて、人のただその心に尽きる。」
道をはずれた生き方ではなく、道に従っていくこと、知識を得ることのみが学問ではないということです。
この詩をもとに明治維新の偉人 高杉晋作が漢詩をつくっています。
「繁文為累古猶今 今古誰能識道深 采菊采薇真的意 人間萬事只其心」
意味は「意味は昔も今も変わりなく、山と詰まれる理はあれど、今も昔も道を識る、事の深きを誰か知る。采菊采薇の歌のもつ本当の意味はすべて、人のただその心に尽きる。」
道をはずれた生き方ではなく、道に従っていくこと、知識を得ることのみが学問ではないということです。
陶淵明の菊を題材にした漢詩をもうひとつ・・。
秋菊有佳色 秋菊 佳色あり
衷露採其英 露を衷みて其の英を採り
汎此忘憂物 此の忘憂の物に汎べて
遠我遺世情 我が世を遺るるの情を遠くす
一觴雖獨進 一觴獨り進むと雖ども
杯盡壺自傾 杯盡きて壺自ら傾く
日入群動息 日入りて群動息み
歸鳥趨林鳴 歸鳥林に趨きて鳴く
嘯傲東軒下 嘯傲す東軒の下
聊復得此生 聊か復た此の生を得たり
「秋の菊がきれいに色づいているので、露にぬれながら花びらをつみ、この忘憂の物に汎べて、世の中のことなど忘れてしまう、杯を重ねるうちに、壺は空になってしまった。
日が沈んであたりが静かになり、鳥どもは鳴きながらねぐらに向かう、自分も軒端にたって放吟すれば、すっかり生き返った気持ちになるのだ。」
寺崎廣業とは関係ありませんが、下記の作品はおそらく陶淵明の「松下」の上記の漢詩にちなむ作品でしょう。
衷露採其英 露を衷みて其の英を採り
汎此忘憂物 此の忘憂の物に汎べて
遠我遺世情 我が世を遺るるの情を遠くす
一觴雖獨進 一觴獨り進むと雖ども
杯盡壺自傾 杯盡きて壺自ら傾く
日入群動息 日入りて群動息み
歸鳥趨林鳴 歸鳥林に趨きて鳴く
嘯傲東軒下 嘯傲す東軒の下
聊復得此生 聊か復た此の生を得たり
「秋の菊がきれいに色づいているので、露にぬれながら花びらをつみ、この忘憂の物に汎べて、世の中のことなど忘れてしまう、杯を重ねるうちに、壺は空になってしまった。
日が沈んであたりが静かになり、鳥どもは鳴きながらねぐらに向かう、自分も軒端にたって放吟すれば、すっかり生き返った気持ちになるのだ。」
寺崎廣業とは関係ありませんが、下記の作品はおそらく陶淵明の「松下」の上記の漢詩にちなむ作品でしょう。
南京赤絵 陶公賞松図角鉢
誂箱
縦204*横204*高さ51
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日本からの依頼に応じた図柄かもしれません。下記の南京赤絵の作品もそのような作品と思われます。
南京赤絵 陶公賞菊図角皿 その3
誂箱
縦137*横141*高さ28
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この頃の日本人の文人らの志向が良く分かりますね。
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「なんで世間の価値などにかかわっていられようか、名利に走る者たちはこせこせと自分の地位にしがみついているが、酒中にこそ物事の本質が見えてくるのだ。」というのは単に酒飲みの口上・・・・???
さて寺崎廣業は画家としての地位を上り詰めた画家ですので、決して出世とは無縁の画家ではありませんでした。若い頃に困窮した境遇を過ごし苦労し、放浪生活を送り、さらに結婚後には火災に遭っていますが、その後は順風満帆の豪奢な生活を過ごしています。ただしこれからという時期に咽頭がんにて亡くなっており、多作なこともあって横山大観と並び称せられながら、現在ではそれほど高い評価を受けていません。
火災に遭って屋敷を失うなど若い頃の苦渋の経験が寺崎廣業と陶淵明は共通しており、寺崎廣業は陶淵明と重ね合わせて、陶淵明を理想としていたのかもしれませんね。
陶淵明と寺崎廣業の若い頃の苦渋の時代に思いを馳せる作品・・。そういう意味で鑑賞すると貴重な作品のように思えます。