夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

贋作考 田道間守 伝徳岡神泉筆

2018-08-22 00:01:00 | 掛け軸
徳岡神泉や小野竹喬の晩年の境地の作品は所詮高嶺の花。「若い子頃の作品なら入手できないこともない。」安直に考えると罠にはまる?

本日はそんな徳岡神泉の作品です。

贋作考 田道間守 伝徳岡神泉筆
絹本着色絹装軸 軸先象牙 合箱 
全体サイズ:横453*縦1760 画サイズ:横260*縦395



聞きなれない画題ですが、「田道間守」については下記の記事があります。



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田道間守(たじまもり/たぢまもり):記紀に伝わる古代日本の人物。

『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖として信仰される。

田道間守の生まれについて、『日本書紀』垂仁天皇3年条では天日槍(新羅からの伝承上の渡来人)の玄孫で、清彦の子とする。一方『古事記』応神天皇段では、天之日矛(天日槍)の玄孫は同じながら多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子とし、清日子(清彦)は弟とする。

『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御します。翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきましたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。

『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」(同じく橘)を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。

そのほか、『万葉集』巻18 4063番では田道間守の派遣伝承を前提とした歌が、巻18 4111番(反歌4112番)では田道間守を題材とする歌が載せられている。

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持ち帰った橘は改良に改良を加えられ、現在のミカンとなったとのこと。昔は現在のようにおいしいお菓子がなかったので、橘の実を加工して食していたというところから、橘本神社は、「みかん」と「お菓子」の神様といわれています。



この作品は橘を抱えた田道間守を描いた作品。要は菓子の神・菓祖として信仰される神を描いた作品。



お菓子の神様ゆえ甘党の義父にはうってつけ・・。お菓子を作るお店に飾ると「う~む」と「店主はただものではないと唸る?作品」、きっと飾ったお店にはご利益があるでしょうね。



作品の落款と印章は下記のとおりです。

 

文献資料は下記によります。

真作なら初期の頃の作と思われますが、良く知られている最盛期の頃のものとは若干違います。ただ当然、落款は時代によって違い、落款からは一概に贋作とは断定できません。

印章もまた時代のよって多少印影が違いますが、本作品は微妙な違いにより厳密には残念ながら同一印章とは断定できかねます。

譲って頂いた先では「真作」と判断したそうですが、それも一理あり?という作品です。

 

なにはともあれ「神様」です。神様、仏様は真贋を論じてはいけません・・ 「しんせん」、もとい「しんせい」な作品です。

神、仏を題材にした贋作を作るといずれ天罰が下ります。騙される側には罰はきっとないでしょう・・・


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