夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

老子立像 加納鉄哉作 その3

2022-01-12 00:01:00 | 彫刻
郷里での初詣・・・。今年は男の隠れ家のしめ縄と交換しました。



ひとではまだ平年並みではないようですが、それなりに多かったようです。



天気にも恵まれて、近所の神社をも回ります。



この社は氏神に境内にある社で叔父?が昭和62年に寄贈したもののようで、天満宮であり、お祭神は菅原道真です。



さて本日は本ブログにて幾つかの作品を紹介している加納鉄哉の作品の紹介です。



老子立像 加納鉄哉作 その3
底彫銘 誂箱 鼻部分・杖の欠損補修必要
作品サイズ:高さ333*幅150*奥行150



老子は中国春秋時代における哲学者です。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置くものとされています。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられています。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われているようです。

 

道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つとされます。史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされ、歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にあります。いずれにしろ老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称しています。また歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められているようです。



***********************************************

加納鉄哉:彫刻家・画家。岐阜生。名は光太郎。1845年に岐阜で生まれ極貧生活を送る。父鶴峰に南画と彫刻を学び、出家して仏画の研究を修める。10代は寺で修行し独学で仏画を習得。還俗して鉄哉と号し、東京で佐野常民に見出され、鉄筆画という独自の技法で画と彫刻を業とする。明治天皇に業務を披露することもあったという。和漢の古美術を研究し、奈良に住して庵を構え制作に明け暮れた。正倉院や法隆寺の宝物の模造など古典技法の修熟に努め、その技法は木彫・銅像・乾漆と多岐にわたった。大正14年(1925)歿、81才。

***********************************************



補足と彫刻を学びますが、少年時代に家は没落し、母が亡くなっています。14歳の時、長良崇福寺の住職が鉄哉を引き取り、数年間、僧の修行をしています。その後、19歳で現在の美濃加茂市にある正眼寺に移り、明治元年に寺を出て還俗し、諸国を漫遊したと言われています。

*鼻の部分が欠損していますので補修が必要です。



弘化2年(1825)、岐阜本町に生まれ、名は光太郎。家は幕末には奉行所の御用達を務めた名家で、父・鶴峰から絵画

明治7年ごろ東京に出て、しばらくは偽筆贋作で生活していたとされます。ある時、パリ万博やウィーン万博の出品に関わった佐野常民に見出され、自宅に招き入れられていますが、鉄哉の師は、父・鶴峰に学んだ以外、あまり知られていないのが現状です。ただし鉄筆画については、辻万峰(1825生)の影響を受けていると言われています。

*服の袖部部にも欠損があります。



鉄哉の名が世に出たのは、明治14年の第2回国内勧業博覧会への出品が入賞したのが最初らしい。古代芸術の調査、模写・模刻を通じてさらに技術を磨き、フェノロサ、岡倉天心らの古寺調査にも同行しています。明治22年、東京美術学校が開設された際、教諭を命じられますが、教えるよりも自らの創作活動を目指すためか、わずか2ヶ月で職を辞しています。

*耳の部分にも欠損があります。これらの欠損は取り扱いや保管方法に問題があったのでしょう。保管箱がないので当方にて誂えることにしました。



官職を離れてから、「唯我独尊庵主」を名乗り、制作に没頭しています。明治20年代の終わりからは、奈良で模作に励んだり、各界の有力者を顧客とした制作を行っています。落語家、講談師、歌舞伎界などにも交際が広がり、鉄哉作品の意匠は、若い時代から禅を学んだベースの上に築かれていったものと思われます。晩年は、奈良に滞在して制作活動を続け、和歌山や大阪の顧客の為の作品が多く、ただ鉄哉の人気は高く、大正9年には支援者らによる「鉄哉会」が設立され、その作品を入手するための会則が設けられたりしたそうです。大正14年、「売茶翁像」の完成後、病に臥せ、81歳の生涯を終えています。



加納鉄哉については特別な研究機関はなく、「加納鉄哉展~知られざる名工~」(岐阜市歴史博物館図録)や「知られざる名工 加納鉄哉」(西美濃わが街386号)などがまとまった著作(西美濃わが街は現在は廃刊)です。



煙管筒や根付、仙媒等もつくり、晩年は奈良を活動の拠点としていましたが、作家の志賀直哉は、大正14年、京都から奈良へ居を移しています。この年、鉄哉は亡くなっているのですが、志賀は生前の鉄哉の工房を訪ねているようです。

2年後、鉄哉をモデルにした短編小説「蘭齋没後」を発表していますが、鉄哉よりむしろ、息子の加納和弘や弟子の渡辺脱哉(だっさい)らと親交があったされます。脱哉とは「人間がぬけているから」という理由で、師匠の加納鉄哉によって付けられた号のようです。

彼のキャラクターと数々のエピソードは、志賀の短篇「奇人脱哉」に見る事ができます。牙彫出身の脱哉は、水牛角の干鮭の差根付を唯一の得意とし、銘は鉄哉が入れていた、とか、それは30円で毎月一つつくれば生活が出来たとか、又、作品の箱書きは、息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていた等、興味深い話ばかりです。そこには一貫して、志賀の脱哉へ向けたあたたかな眼差しが感じらます。



追記:加納銕哉は、1921年(大正10)に奈良の高畑にアトリエである「最勝精舎」を建てて、本拠地としました。この工房兼住居は2度の移転を止むなくし、銕琅によって受け継がれましたが、銕琅の死後はその保存は断念せざるを得なかった。奈良で親交のあった志賀直哉曰く「職人気質の名工」と称え、気風闊達、野の人でもありました。天長節(天皇誕生日)には、必ず赤飯を作り祝うことを忘れなかった銕哉でしたが、一方悪戯半分に自他を問わず贋作を作るという茶目っ気もありました。そのうち、“贋銕哉”も出現するはめになることになり、弟子の銕琅を悩ませるくらいでした。



底の銘は独特のものでこの彫銘からも真作と判断されます。



当方の所蔵する加納鉄哉や市川銕琅の作品が徐々に増えてきました。



この二人の加えて平櫛田中、高村光雲、平野富山らの作品が増えてきました。



掛け軸、陶磁器、漆器。刀剣と小生の蒐集はジャンルを越えだして洪水になってきています。



ただしじっくりと飾ることは使う愉しみは忘れないようにしたいと思っています。

*杖はもともとなかったので、料理用の箸を転用しています

さて本作品を修理するために京都の修理専門店に作品を送ってみてもらいました。そうしたところ、本作品は彩色されていたか、途中で彩色止めた可能性があるとのことです。胡粉や彩色の付いた跡があり、これを落とすためにあちこちにその痕跡があるとのことでした。修理するにはそれ相応の修理費用が発生するとのことでしたが、修理を依頼しました。杖もそれ往々のものに・・・。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。