帰京する際はほんの少しの間の好天。奥羽本線からは津軽富士が見えますが、車窓からはこの川の地点が撮影ポイントのようですが、寒さで車窓が凍りついています
本日紹介する作品は古九谷の再興窯として知られている松山窯の作品らしき作品です。
古九谷の本物は市場に出回るのはあってもせいぜい色絵古九谷の小品程度であり、本当に価値のある古九谷の大皿類は市場に出回ることことなどまずないと思っています。そこで作品数の多い吉田屋窯や松山窯などの再興九谷の作品が出回るのですが、インターネットオークションなどの市場に古九谷再興窯として出回る作品はその出来不出来の差が大きく、出品数が多い割には筋の良い作品が非常に数が少ないように思います。明治期を初めてとする古そうな九谷風の作品はなんでもかんでも再興九谷としている風潮があるようです。
*お茶席で使われることの少ない九谷焼(再興古九谷)の作品ですが、もっと頻繁に使われていいのでしょう。ただし出来の良い作品に限られますね。茶席の合わない作品は品位を疑われます・・・。
当方でも古九谷や再興九谷は陶磁器蒐集では避けて通れない作品群なので、勉強のために幾つか作品を入手していますが、本日はその作品の中で松山窯の作品らしきものの紹介です。
再興九谷 伝松山窯 青手花文七寸皿
合杉古箱
口径211~214*高台外径108*高さ49~52
あらためて松山窯の歴史を記述します。
松山窯は、嘉永元年(1848)、大聖寺藩が山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村(現加賀市松山町)に興した窯です。その前年から小松の蓮代寺窯で青手古九谷の再現の取り組んでいた松屋菊三郎、粟生屋源右衛門らがこの窯に招かれました。素地は藩内の九谷村・吸坂村・勅使村などの陶石土を使って作られたもので、主として藩の贈答品として古九谷青手系の作品が作られました。
昭和54-55年の窯跡の発掘調査では、登窯2基・平窯1基・色絵窯1基とその基礎と焼土・工房跡1棟・工房内の轆轤心石3基、そして、ものはら2箇所が発掘されました。江戸時代のものはらからは、染付・白磁・青磁などの磁器と色絵、陶器・素焼などが出土しました。
大聖寺藩は、赤絵が加賀一帯で江戸の後期から末期にかけて大いに隆盛となる中、次第に青手古九谷や吉田屋窯の青手のような青色系の磁器が焼かれなくなってきたため、青九谷を再現させようとしたことから始めました。このため、当時、松山村の人はこの窯を「松山の御上窯」(藩公直営の窯の意味)と呼んだといわれます。しかしながら、源右衛門が文久3年(1863年)に歿し、菊三郎が蓮代寺窯の経営に傾注せざるをなくなり、また、大聖寺藩が山代の九谷本窯(宮本屋窯を買収してできた窯で、永楽窯ともいわれた)に財政的支援を集中するため、松山窯の保護を止めてしまいました。こうしたことから、松山窯は民営に移り、木下直明らによって明治5年(1872)頃まで続けられたといわれます。
松山窯の出来不出来はこのように「藩公直営の窯」(松山窯は別名「御用窯」)の時代と「民営の松山窯」の違いによるものとも推定できます。あきらかに「藩公直営の窯」に時代と思われる作品が出来が数段よいものとなっています。
この作品は七寸ほどの中皿ですが、再興九谷の「松山窯」において非常に出来の良い作品だと思います。制作年代はおおよそ1848~1860年代と推てしています。
松山窯は江戸後期に諸窯生まれた再興九谷の中でもその最終期を飾る上窯(技術的にも非常に優れ、最も古九谷に近づいたと言われている)と評価されています。まじめで出来の良いものが多くあり、吉田屋窯よりも上出来の作品が御用窯時代に作られました。明治政府によって藩の組織が解体されるまでの間、後の時代に活躍する職人を育てながら、松山窯は古九谷の復興に取り組んできました。
鼠素地と呼ばれる薄いグレー味を帯びた素地を特長とし、釉薬発色に関しては最も古九谷に近い、傑出した作品を生み出しています。代々古九谷の再現に努めてきた人間国宝である三代徳田八十吉も、「松山窯の作品を見ると古九谷の色に限りなく近く、松山窯によって古九谷写しは完成した」と述べています。
山水画にも遠景、中景、近景を表現して実景に近づこうとする描写がうかがわれます。この窯の作品を見ると、絵画を勉強した絵師(菊三郎かその指導を受けた者か)がいて、同じような山水画を描くにあたってもその時代の風潮とか傾向とか好みとかいうものをきっちと嗅ぎ分けて、確実に作品の中に表わしていることがわかります。
別の特色として、鉢、徳利、盃、杯洗などのたくさんの小物にも様々な図案が描かれていることです。文人たちや上級武士たちが人を招いて宴席を開いたとき、ある程度教養の高い人たちには分かる図案や文様が描かれています。徳利では、面取りされた表面に山水、枇杷(ビワ)がなど描かれたものが多くあります。また、高杯(たかつき)の台のような杯洗の中には龍が描かれ、水を張ったとき、まさに水神を想起させて目を楽しませる着想力の豊かさを感じさせます。ほかにも、杯洗の中に描かれた鴛鴦からは、揺れる水面越しに水鳥が見えるという、非常に美しい情景を思い起こさせくれます。
このように、用途に合わせた図柄を選んでいることも特色の一つです。大鉢、中皿、小皿の気付かない隠れたところに手の込んだ図案が描かれていて、絵心を感じさせてくれます。普通、青手の裏面は緑で塗り埋めて、渦雲、唐草、木の葉などで充填したものが多い中、枇杷(ビワ)などを描いて、家運隆盛を願う思いがこめられた作品があります。
そして、特筆されるのが紺青の絵の具で、これまでに九谷焼には使われたことのなかった合成の絵の具である花紺青です。この花紺青は不透明であり、古九谷以来の透明感の和絵の具とは違った趣を見せています。庄三が西洋絵の具を多く使って多彩な表現をしたのと同じ発想であったと考えられます。ほかにも、緑は黄味がかっていて、紫はやや赤味がかっているのも、それまでの青九谷系にない色合いです。
松山窯の銘は角福の他に「九谷」「九谷製」「永楽」「貴」「大日本九谷製」「大明成化年製」などが多くの銘があります。
古九谷ばかりが注目を浴びる昨今ですが、再興九谷の優品を見直してみる必要があるようです。
参考に下記の作品を紹介します。能美市九谷焼美術館蔵において「ぜひみてほしい九谷焼5点」のひとつとして取り上げられています。
参考作品
松山窯 蕪に遊禽の図平鉢 江戸末期
能美市九谷焼美術館蔵
説明文より:古九谷というのは、初期の九谷焼のことをさしますが、古九谷の窯は50年ほどしか稼働せず、前田家の色絵磁器生産は行われなくなりました。しかし約100年後に再び領内で九谷焼は作られるようになり、それらを再興九谷と呼ばれます。この作品が作られた松山窯は、古九谷の青手復興のために開かれた窯です。色使いは古九谷の青手様式と同じですが、カブや小鳥といったモチーフがかわいく、ほほえましい印象です。古九谷の青手とは趣が違います。力強さというよりは、柔らかい雰囲気が漂います。この頃は戦国から200年以上の時が過ぎ、とても平和な時代だったと言えます。古九谷のように戦国時代の影響のある豪放さに比して、世の平和さが画風にもあらわれているのでしょう。
先日紹介した当方の所蔵作品である「青手山水図大皿」の作品と並べてました。
再興九谷 松山窯 伝青手山水図大皿
合杉古箱
口径337*高台径*高さ65
どちらもおそらく御用窯時代の松山窯の優品でしょう。共通する文様が描かれています。
吉田屋窯が再興九谷の最高峰と称されますが、松山窯の御用窯の作品の方が優れているかもしれません。入手は難しいですが、意外に再興九谷と称される作品に紛れていて入手可能かもしれません。
なお松山窯の民窯時代の作品は格段に品格が落ちますが、このことが松山窯の評価を下げているのでしょう。
大皿はあまり見えませんが、本日の作品には特有の青の釉薬が特徴となっています。
インターネットオークションには近代の九谷の作品を古九谷と称したり、再興九谷でも出来の悪いものが殆どですので、よく見極めて筋の良い作品を揃えることが飽きのこない蒐集になるようです。
*本作品にて再興九谷窯である松山窯の作品と思われる作品が3作品?となりました。
本日紹介する作品は古九谷の再興窯として知られている松山窯の作品らしき作品です。
古九谷の本物は市場に出回るのはあってもせいぜい色絵古九谷の小品程度であり、本当に価値のある古九谷の大皿類は市場に出回ることことなどまずないと思っています。そこで作品数の多い吉田屋窯や松山窯などの再興九谷の作品が出回るのですが、インターネットオークションなどの市場に古九谷再興窯として出回る作品はその出来不出来の差が大きく、出品数が多い割には筋の良い作品が非常に数が少ないように思います。明治期を初めてとする古そうな九谷風の作品はなんでもかんでも再興九谷としている風潮があるようです。
*お茶席で使われることの少ない九谷焼(再興古九谷)の作品ですが、もっと頻繁に使われていいのでしょう。ただし出来の良い作品に限られますね。茶席の合わない作品は品位を疑われます・・・。
当方でも古九谷や再興九谷は陶磁器蒐集では避けて通れない作品群なので、勉強のために幾つか作品を入手していますが、本日はその作品の中で松山窯の作品らしきものの紹介です。
再興九谷 伝松山窯 青手花文七寸皿
合杉古箱
口径211~214*高台外径108*高さ49~52
あらためて松山窯の歴史を記述します。
松山窯は、嘉永元年(1848)、大聖寺藩が山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村(現加賀市松山町)に興した窯です。その前年から小松の蓮代寺窯で青手古九谷の再現の取り組んでいた松屋菊三郎、粟生屋源右衛門らがこの窯に招かれました。素地は藩内の九谷村・吸坂村・勅使村などの陶石土を使って作られたもので、主として藩の贈答品として古九谷青手系の作品が作られました。
昭和54-55年の窯跡の発掘調査では、登窯2基・平窯1基・色絵窯1基とその基礎と焼土・工房跡1棟・工房内の轆轤心石3基、そして、ものはら2箇所が発掘されました。江戸時代のものはらからは、染付・白磁・青磁などの磁器と色絵、陶器・素焼などが出土しました。
大聖寺藩は、赤絵が加賀一帯で江戸の後期から末期にかけて大いに隆盛となる中、次第に青手古九谷や吉田屋窯の青手のような青色系の磁器が焼かれなくなってきたため、青九谷を再現させようとしたことから始めました。このため、当時、松山村の人はこの窯を「松山の御上窯」(藩公直営の窯の意味)と呼んだといわれます。しかしながら、源右衛門が文久3年(1863年)に歿し、菊三郎が蓮代寺窯の経営に傾注せざるをなくなり、また、大聖寺藩が山代の九谷本窯(宮本屋窯を買収してできた窯で、永楽窯ともいわれた)に財政的支援を集中するため、松山窯の保護を止めてしまいました。こうしたことから、松山窯は民営に移り、木下直明らによって明治5年(1872)頃まで続けられたといわれます。
松山窯の出来不出来はこのように「藩公直営の窯」(松山窯は別名「御用窯」)の時代と「民営の松山窯」の違いによるものとも推定できます。あきらかに「藩公直営の窯」に時代と思われる作品が出来が数段よいものとなっています。
この作品は七寸ほどの中皿ですが、再興九谷の「松山窯」において非常に出来の良い作品だと思います。制作年代はおおよそ1848~1860年代と推てしています。
松山窯は江戸後期に諸窯生まれた再興九谷の中でもその最終期を飾る上窯(技術的にも非常に優れ、最も古九谷に近づいたと言われている)と評価されています。まじめで出来の良いものが多くあり、吉田屋窯よりも上出来の作品が御用窯時代に作られました。明治政府によって藩の組織が解体されるまでの間、後の時代に活躍する職人を育てながら、松山窯は古九谷の復興に取り組んできました。
鼠素地と呼ばれる薄いグレー味を帯びた素地を特長とし、釉薬発色に関しては最も古九谷に近い、傑出した作品を生み出しています。代々古九谷の再現に努めてきた人間国宝である三代徳田八十吉も、「松山窯の作品を見ると古九谷の色に限りなく近く、松山窯によって古九谷写しは完成した」と述べています。
山水画にも遠景、中景、近景を表現して実景に近づこうとする描写がうかがわれます。この窯の作品を見ると、絵画を勉強した絵師(菊三郎かその指導を受けた者か)がいて、同じような山水画を描くにあたってもその時代の風潮とか傾向とか好みとかいうものをきっちと嗅ぎ分けて、確実に作品の中に表わしていることがわかります。
別の特色として、鉢、徳利、盃、杯洗などのたくさんの小物にも様々な図案が描かれていることです。文人たちや上級武士たちが人を招いて宴席を開いたとき、ある程度教養の高い人たちには分かる図案や文様が描かれています。徳利では、面取りされた表面に山水、枇杷(ビワ)がなど描かれたものが多くあります。また、高杯(たかつき)の台のような杯洗の中には龍が描かれ、水を張ったとき、まさに水神を想起させて目を楽しませる着想力の豊かさを感じさせます。ほかにも、杯洗の中に描かれた鴛鴦からは、揺れる水面越しに水鳥が見えるという、非常に美しい情景を思い起こさせくれます。
このように、用途に合わせた図柄を選んでいることも特色の一つです。大鉢、中皿、小皿の気付かない隠れたところに手の込んだ図案が描かれていて、絵心を感じさせてくれます。普通、青手の裏面は緑で塗り埋めて、渦雲、唐草、木の葉などで充填したものが多い中、枇杷(ビワ)などを描いて、家運隆盛を願う思いがこめられた作品があります。
そして、特筆されるのが紺青の絵の具で、これまでに九谷焼には使われたことのなかった合成の絵の具である花紺青です。この花紺青は不透明であり、古九谷以来の透明感の和絵の具とは違った趣を見せています。庄三が西洋絵の具を多く使って多彩な表現をしたのと同じ発想であったと考えられます。ほかにも、緑は黄味がかっていて、紫はやや赤味がかっているのも、それまでの青九谷系にない色合いです。
松山窯の銘は角福の他に「九谷」「九谷製」「永楽」「貴」「大日本九谷製」「大明成化年製」などが多くの銘があります。
古九谷ばかりが注目を浴びる昨今ですが、再興九谷の優品を見直してみる必要があるようです。
参考に下記の作品を紹介します。能美市九谷焼美術館蔵において「ぜひみてほしい九谷焼5点」のひとつとして取り上げられています。
参考作品
松山窯 蕪に遊禽の図平鉢 江戸末期
能美市九谷焼美術館蔵
説明文より:古九谷というのは、初期の九谷焼のことをさしますが、古九谷の窯は50年ほどしか稼働せず、前田家の色絵磁器生産は行われなくなりました。しかし約100年後に再び領内で九谷焼は作られるようになり、それらを再興九谷と呼ばれます。この作品が作られた松山窯は、古九谷の青手復興のために開かれた窯です。色使いは古九谷の青手様式と同じですが、カブや小鳥といったモチーフがかわいく、ほほえましい印象です。古九谷の青手とは趣が違います。力強さというよりは、柔らかい雰囲気が漂います。この頃は戦国から200年以上の時が過ぎ、とても平和な時代だったと言えます。古九谷のように戦国時代の影響のある豪放さに比して、世の平和さが画風にもあらわれているのでしょう。
先日紹介した当方の所蔵作品である「青手山水図大皿」の作品と並べてました。
再興九谷 松山窯 伝青手山水図大皿
合杉古箱
口径337*高台径*高さ65
どちらもおそらく御用窯時代の松山窯の優品でしょう。共通する文様が描かれています。
吉田屋窯が再興九谷の最高峰と称されますが、松山窯の御用窯の作品の方が優れているかもしれません。入手は難しいですが、意外に再興九谷と称される作品に紛れていて入手可能かもしれません。
なお松山窯の民窯時代の作品は格段に品格が落ちますが、このことが松山窯の評価を下げているのでしょう。
大皿はあまり見えませんが、本日の作品には特有の青の釉薬が特徴となっています。
インターネットオークションには近代の九谷の作品を古九谷と称したり、再興九谷でも出来の悪いものが殆どですので、よく見極めて筋の良い作品を揃えることが飽きのこない蒐集になるようです。
*本作品にて再興九谷窯である松山窯の作品と思われる作品が3作品?となりました。