「あつくなく寒くなく又うえもせず憂き事しらぬ身こそ安けれ」という願いを込めて・・・、息子には伝えたいことがたくさんある。
本日の作品はかの葛飾北斎の高弟「魚屋北渓」の作品です。
魚屋北渓と蹄斎北馬は葛飾北斎の双璧の弟子とされています。葛飾北斎はあまりにも有名ですが、この二人も浮世絵画家としては著名で、一応贋作もかなり多いようです。
曹次郎像自賛 魚屋北渓筆
絹本着色軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1250*横650 画サイズ:縦400*横560
「曹次郎」なる人物は詳細はわかりません。箱は虫食いなどでボロボロ・・。よく掛け軸本体が無事であったと思われるほど・・。
箱表に「曹次之像自讃 北渓筆」とあり、裏には「曹次□石川五代目俗名□□門之五拾三歳之時江戸□像を北渓に画し自ら讃して□□のへり 曹平誌」とあります。巻止めには「天保土子年(1840年 天保11年 庚子)□□石川曽江門行年五拾三歳之像お江戸赤坂食生町北渓□□セル曹次之」とあります。
賛についても判読できていません。賛には「おきふしに □□乃誓を ワすれぬと 浮世の人の 福禄寿なり 霞吸亭 二泊 花押」とありますが・・。
なにやらサインのような花押、それなりの人物かと・・。
肖像画のようですが、北渓が肖像画を描いていたかどうか?
よく描けていることとこのままでは朽ち果てるという理由で入手に踏み切りました。いつも出来心というもの。
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魚屋北渓:(ととや ほっけい)安永9年〈1780年〉~ 嘉永3年4月9日〈1850年5月20日〉江戸時代後期の浮世絵師。葛飾北斎の門人。北斎門人の中では、蹄斎北馬とともに双璧とされる。姓岩窪、名は初五郎。後に金右衛門と改めた。諱は辰行。拱斎、葵岡(あおいがおか)、葵園などと号す。四谷鮫ヶ橋で母里藩主松平家御用達の魚屋を営んでいたので、魚屋と称している。
本作品の印章は「葵岡」の朱文白二重方印が押印されています。
初めは狩野養川院惟信に学び、後に北斎門人となった。その後画業一筋の生活に入り、赤坂桐畑へ転居して葵岡と号した。寛政12年(1800年)頃の狂歌本の挿絵が初作で、以降50年に及ぶ長い作画期の大半は狂歌本、狂歌摺物の制作であった。これらは狂歌を趣味とする人たちの集まりが自作を発表するという自費出版であり、市販のものとは異なり印刷に金をかけ、巧妙な彫り、摺りを施した贅沢な作りのものが多かった。
錦絵は少ないが、肉筆画、摺物、狂歌絵本の挿絵などに数多く秀作を残している。特に代表作として横長判の揃物「諸国名所」シリーズや、「北里十二時」、『北渓漫画』などは著名である。滝沢馬琴作の『近世説美少年録』の挿絵なども知られている。また杉並区堀ノ内にある妙法寺には、北渓の描いた大絵馬「お題目図」があり、これは南無妙法蓮華経の題目を子供も含めて15人の人々が礼拝している図で、師の北斎の画法と良く似た特色を持つ大作かつ傑作である。この「お題目図」は板地4枚に金、胡粉を塗り、金泥を引いたもので、「文政四年巳歳五月吉旦 願主神田龍閑橋餅屋安兵衛」と記されている。嘉永元年(1848年)頃まで作画をしていた。享年71。
墓所は、杉並区和田の立法寺(りゅうほうじ)である。葵園老人北渓君之墓とある。辞世の句は「あつくなく寒くなく又うえもせず憂き事しらぬ身こそ安けれ」。門人には岳亭春信のほか、岸本渓雪、渓里、渓由、葵岡(あおいがおか)渓月、岡田渓松、葵岡渓栖、渓林がいる。何れも文政期に活躍、渓里は拱一とも号し、渓林は鶴屋といったという。渓由の作品には錦絵「梅花」があり、渓月、渓松には摺物の作品があるという。
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初めは狩野養川院惟信に学んだということは狩野派に属していたということになります。
「赤坂桐畑へ転居して葵岡と号した。」とあますが、「赤坂桐畑」で有名なのは広重の『名所江戸百景』シリーズの中の「赤坂桐畑」という作品があり、現在の赤坂溜池の景色を描いた作品です。描かれた水面は、今も赤坂に地名として残っている溜池であり、往時には、その周囲に桐が多く植えられ赤坂桐畑といわれていたそうです。
この作品は安政3年(1856)4月に出版されており、本作品の16年後のことです。赤坂食生?町については不詳ですが後学とします。
東京での現在の勤務地が近いことと縁のあるのも嬉しいものです。
表具は多少痛んではいますが、箱の状態から考えると奇跡的に当時のままの残っています。
浮世絵の型にはまった、たとえば顕著な歌川派、菊川派などの美人画よりこういう作品のほうが私は好きです。というよりはこの手の美人画には嫌悪さえ抱くのは私だけではないでしょうね。
人生にはそれほど役に立たないが未来に伝えるもの、そのなかのほんの少しに骨董がある。このブログはそのひとつ・・・。
本日の作品はかの葛飾北斎の高弟「魚屋北渓」の作品です。
魚屋北渓と蹄斎北馬は葛飾北斎の双璧の弟子とされています。葛飾北斎はあまりにも有名ですが、この二人も浮世絵画家としては著名で、一応贋作もかなり多いようです。
曹次郎像自賛 魚屋北渓筆
絹本着色軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1250*横650 画サイズ:縦400*横560
「曹次郎」なる人物は詳細はわかりません。箱は虫食いなどでボロボロ・・。よく掛け軸本体が無事であったと思われるほど・・。
箱表に「曹次之像自讃 北渓筆」とあり、裏には「曹次□石川五代目俗名□□門之五拾三歳之時江戸□像を北渓に画し自ら讃して□□のへり 曹平誌」とあります。巻止めには「天保土子年(1840年 天保11年 庚子)□□石川曽江門行年五拾三歳之像お江戸赤坂食生町北渓□□セル曹次之」とあります。
賛についても判読できていません。賛には「おきふしに □□乃誓を ワすれぬと 浮世の人の 福禄寿なり 霞吸亭 二泊 花押」とありますが・・。
なにやらサインのような花押、それなりの人物かと・・。
肖像画のようですが、北渓が肖像画を描いていたかどうか?
よく描けていることとこのままでは朽ち果てるという理由で入手に踏み切りました。いつも出来心というもの。
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魚屋北渓:(ととや ほっけい)安永9年〈1780年〉~ 嘉永3年4月9日〈1850年5月20日〉江戸時代後期の浮世絵師。葛飾北斎の門人。北斎門人の中では、蹄斎北馬とともに双璧とされる。姓岩窪、名は初五郎。後に金右衛門と改めた。諱は辰行。拱斎、葵岡(あおいがおか)、葵園などと号す。四谷鮫ヶ橋で母里藩主松平家御用達の魚屋を営んでいたので、魚屋と称している。
本作品の印章は「葵岡」の朱文白二重方印が押印されています。
初めは狩野養川院惟信に学び、後に北斎門人となった。その後画業一筋の生活に入り、赤坂桐畑へ転居して葵岡と号した。寛政12年(1800年)頃の狂歌本の挿絵が初作で、以降50年に及ぶ長い作画期の大半は狂歌本、狂歌摺物の制作であった。これらは狂歌を趣味とする人たちの集まりが自作を発表するという自費出版であり、市販のものとは異なり印刷に金をかけ、巧妙な彫り、摺りを施した贅沢な作りのものが多かった。
錦絵は少ないが、肉筆画、摺物、狂歌絵本の挿絵などに数多く秀作を残している。特に代表作として横長判の揃物「諸国名所」シリーズや、「北里十二時」、『北渓漫画』などは著名である。滝沢馬琴作の『近世説美少年録』の挿絵なども知られている。また杉並区堀ノ内にある妙法寺には、北渓の描いた大絵馬「お題目図」があり、これは南無妙法蓮華経の題目を子供も含めて15人の人々が礼拝している図で、師の北斎の画法と良く似た特色を持つ大作かつ傑作である。この「お題目図」は板地4枚に金、胡粉を塗り、金泥を引いたもので、「文政四年巳歳五月吉旦 願主神田龍閑橋餅屋安兵衛」と記されている。嘉永元年(1848年)頃まで作画をしていた。享年71。
墓所は、杉並区和田の立法寺(りゅうほうじ)である。葵園老人北渓君之墓とある。辞世の句は「あつくなく寒くなく又うえもせず憂き事しらぬ身こそ安けれ」。門人には岳亭春信のほか、岸本渓雪、渓里、渓由、葵岡(あおいがおか)渓月、岡田渓松、葵岡渓栖、渓林がいる。何れも文政期に活躍、渓里は拱一とも号し、渓林は鶴屋といったという。渓由の作品には錦絵「梅花」があり、渓月、渓松には摺物の作品があるという。
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初めは狩野養川院惟信に学んだということは狩野派に属していたということになります。
「赤坂桐畑へ転居して葵岡と号した。」とあますが、「赤坂桐畑」で有名なのは広重の『名所江戸百景』シリーズの中の「赤坂桐畑」という作品があり、現在の赤坂溜池の景色を描いた作品です。描かれた水面は、今も赤坂に地名として残っている溜池であり、往時には、その周囲に桐が多く植えられ赤坂桐畑といわれていたそうです。
この作品は安政3年(1856)4月に出版されており、本作品の16年後のことです。赤坂食生?町については不詳ですが後学とします。
東京での現在の勤務地が近いことと縁のあるのも嬉しいものです。
表具は多少痛んではいますが、箱の状態から考えると奇跡的に当時のままの残っています。
浮世絵の型にはまった、たとえば顕著な歌川派、菊川派などの美人画よりこういう作品のほうが私は好きです。というよりはこの手の美人画には嫌悪さえ抱くのは私だけではないでしょうね。
人生にはそれほど役に立たないが未来に伝えるもの、そのなかのほんの少しに骨董がある。このブログはそのひとつ・・・。
詞書は
「曹次□石川五代目俗名曽次衛門之五拾三歳之時江戸詰□像を北渓に画し自ら讃して□□給へり 曹平誌」「天保土子年俗名石川曽次衛門行年五拾三歳之像お江戸赤坂食生町北渓二畫セル曹次之」「おきふしに 弥陀(阝+色)乃誓を ワすれぬは 浮世の人の 福禄寿なり 霞吸亭 二泊」と読めます。
賛の歌意に自信はありませんが、「寝ても覚めても阿弥陀の誓いを忘れない、生きた福禄寿のような人である」というような意味になるでしょうか。当時は生前に肖像を描き置き、本人の死後その面影を偲ぶ、今でいう遺影のようなものとして利用されたようです。箱書きを記した「曽平」というのは曹次の子息でしょうか。肖像画を依頼した人物と北渓との関係が判れば、今後作品の資料的価値がぐっと上がるかもしれません。いずれにせよ、この作品を保護することは、大変意義のあることと思います。