夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

古染付 蓮唐子図五寸丸皿

2018-04-28 00:01:00 | 陶磁器
明日早朝より帰省しますので、ブログはしばし休稿とさせていただきます。

さて古い陶磁器を愛する人は多いですが、それを日常に使う人は残念ながら少ないかもしれませんね。そしてそれを使いこなす人はもっと少ないだろうと思います。かくいう小生とてもその例外ではありません。

確かに古い陶磁器は日常的に使用することに逡巡しがちです。用いても、花生か、酒器ぐらいのものが多いでしょう。ただ毀れることを気遺って箱に仕舞われていては、骨董や陶磁器としての使命は薄れます。価格も高い作品も多いので扱いには慎重を要しますが、それを用いることが、やきものを甦えらせることになるのでしょう。

美術館のガラスを境とした陳列ケースに並べられているときより、なにげなく棚や食卓に用いられている作品のほうが美しく、ハッと身の引き締まる思いを抱くことは多いものです。さり気なく用いられることが、古陶磁器への思いやりと飾る人の感性が感じられて嬉しいものです。

古陶磁器の魅力の原点は気どらぬ自然さにあると言えるのでしょう。

陶磁器の形が不均整であるのは自然だからであり、絵付が自由でのびのびとしているのは、作為がないからです。また初期の伊万里や、創成期の唐津が美しくて力強いのは、そのうぶ気な稚拙さの中にも、ひたむきな自然さが感じられるからだと言われています。それらは親み深く、観る人の心を把えてはなさない作品が多いです。自然であることは、いかにも美しい在り方と言えるのでしょう。

逆に言えば、人巧を弄することは自然に逆らうことであって、その度合いは美しさに反比例するものかもしれません。つまり自然であれば、ある程美しいと言えますが、このことは骨董や陶磁器に限らず、人間の在り方や生き方をも暗示していますね。

作為のない古陶磁器の代表格のひとつに本日改めて紹介する「古染付」の作品群があります。

古染付 蓮唐子図五寸丸皿
銘無
口径161*高台径*高さ32



数多くある古染付の作品の中でも絵付けが優れている作品だと思います。上部に描かれているのは太陽で陽が差しているのかもしれません。にわか雨に蓮を傘代わりにさしていた時に「もう雨が上がって日が差しているよ。」、「えっ、本当だ。」と唐子が言い合っている風景のように思える洒脱な逸品だと思いませんか。



古染付は虫喰いなどの器の作り自体が話題になることが多く、本ブログでもその点を詳しく記述してきましたが、古染付の本題はその絵付けの面白さです。



最近紹介した他の作品と並べてみました。絵付けの面白い作品を選んでいますので、状態の悪い作品が多くなります。



作品の裏側は下記の写真のとおりです。



右から順番に高台周りの拡大してみました。右側の作品は鉋で削った跡が鮮明になっています。



本日紹介する作品は鉋の削りの跡が不鮮明になっています。



左側の作品は若干、鉋の削り跡はありますが、それほど鮮明ではありません。



これらの違いは作られた時期によるものか、窯の違いによるものかは当方では詳しくは解りませんが、作品の出来不出来に影響するものではありません。



ふたつの作品は偶然ですが「唐子」を描いた作品となりました。最近蒐集した使えそうな古染付の小さめの皿がこれで4枚となりました。



もう一枚は絵柄が絵柄が趣が違うので本日は掲載しておりません。古染付は口縁が脆く、また全体の薄手なので壊れやすい磁器ですから、扱いには慎重を要しますね。



もともと煎茶に用いられていたからでしょうか、煎茶が身近でなくなり、今ではあまり貴重な作品だと思われていない古染付の皿ですから、入手も容易になってきたかもしれません。ただ本来の古染付は意外に少ないので、時代の下がった作品や贋作、中国明末の染付が古染付と称して売られていることからも、購入には十二分な注意が必要です。

陶磁器は古伊万里や鍋島といった綺麗な作品を蒐集するよりも、古信楽、備前、李朝、民芸、古染付、明末染付、明末赤絵といった均整の取れていない野性味溢れる作品が小生の蒐集対象です。気どらぬ自然さ、整った美人よりも年を経ても飽きない人間味あふれる女性の方が魅力的ですね。

さて明日からは自然の中に埋没、気取らぬ自然、熊に出会わないように祈るばかり・・・・。



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