auショップでタブレットの契約。後日やたら通信速度が遅いのでauショップで原因と思われるシステムカードを交換しましたが、またしても通信速度にトラブル。どうもau通信速度に障害がありそう・・。
二度もauショップで待たされた上に、今度は最後はショップでは対応できないから、サポートセンターにそちらで連絡してくださいとの対応。安かれ良かれのauは考え物と思いながら帰宅途中に再びauショップに立ち寄り、良くチェックしてほしいと申し出るとどうもau側に設定ミスがあったとのこと
その場にて即解決しましたが、このままサポートセンターに持ち込んだら解決に長引いたでしょう。よく解らない通信機能の設定ですが、「言うべきことはきちんと信念を通して説明すること」が必要という事例かも?
さて本日の作品は男の隠れ家にあった作品を持ち帰って整理している作品のひとつです。二度ほど本ブログに投稿している作品です。
リメイク 太公望 伝狩野融川筆
絹本水墨軸装 軸先 合箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦217*横310
本作品は太公望を描いた作品の中でもかなりの優品だと思っています。破墨山水で太公望を描いていますが、破墨山水とは定説はありませんが、山水画にて素地と白地を残して周囲に墨の地隈を施して白地そのものが物象を表現するように描くという意味であるという説がああります。その後、意味は少しずつ変化してきて、淡墨で大体を描いてその上に濃墨を加えて仕上げていく方法に解されています。
中国の逸話の人物を描いた作品ですので、明末呉須染付の作品を手前において飾っています。
描かれている「太公望」については以下の説明のとおりです。
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太公望:中国周時代の賢者。氏は呂、名は尚。魚を釣って沈思することを楽しみとしていた。時に西伯(文王)が猟に出ようと占うと、獲るものは動物ではなく自分を補佐する人物とでた。そして、渭水のほとりでこの呂尚と出会い、喜んで師とした。これより、太公望は西伯を援けて王者の師となった。これより、太公望は西伯を援けて天下の三分の二を領し、ついで武王を援けて紂を破って周の天下となし、百余歳でなお王の師であったという人物です。
太公望が江岸に釣糸を垂れる図は古来から好画材であった。海北友松、尾形光琳等の作品がある。
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実在の人物で、詳細は下記のとおりです。
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呂尚(りょ しょう):紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖、姓は姜。氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。
歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない。
『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四嶽の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。元は人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する。
また周に仕える以前は殷の帝辛 (紂王) に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌 (後の文王) のもとに身を寄せたと伝わる。周の軍師として昌の子の発 (後の武王) を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。
営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。また、斉は成王から黄河、穆棱(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は非常に長生きをし、没時に100歳を超えていたという。
しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある。
春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った。呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は唐代に重要視され、731年に玄宗によって呂尚と前漢の張良を祀る太公廟が各地に建立された。760年に粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。また、古今の名将十人が唐代の史館により選ばれ、太公望と共に祀られた(武廟十哲)。782年、徳宗の命により唐代の史館が新たに六十四人の名将を選出し、武成王廟に合祀された(武廟六十四将)。明の時代に入ると、洪武帝は周の臣下である呂尚を王として祀るのは不適当であるとして、武成王廟の祭祀を中止させた。
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本作品を狩野融川と断定はできません。印章も狩野融川の名の「寛信」なのか、または別人物の「実信」なのか判然としませんし、狩野融川の別号に「実信」や「丁楽」の両方とも記述がありません。落款の「了楽」の判断は後学によることとしています。
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狩野寛信:安永6年生まれ、文化12年没(1777年~1815年)、享年38歳。別号を青悟齋。昆信(閑川)の子で、性格は豪爽であったという。門下には志村融晶、沖融門、関岡融山、長谷川融記、町田融女らがいる。
将軍徳川家斉の時に朝鮮王に贈り物として、近江八景を屏風に描くように依頼されたが、老中阿部豊後守にその画の金砂が薄いことを指摘された。寛信は、近景は濃くして、遠景は薄いものであり直す必要はないと主張した。それでも老中は直すように指示した。寛信は憤慨し、よき画家というものは俗世間の要求に屈服しかねるといい、城を下る途中の輿の中で、割腹して果てた。まことに豪爽としかいいようのない性格である。
本作品も寛信ぼ作品ならば、そのこのような性格を如実に表した作品と言えよう。
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波の表現された生地の表具も良い。小品ながら、大事にしたい作品のひとつであると考えています。整理が終了したらまた元の男の隠れ家に戻しておきます。
描いた画家についていつか解る時がくると思いながら、入手してから30年近く経ちます。百歳までは生きられないでしょうが、いつか誰が描いた作品か解る時が来ると思っていますが・・・。
二度もauショップで待たされた上に、今度は最後はショップでは対応できないから、サポートセンターにそちらで連絡してくださいとの対応。安かれ良かれのauは考え物と思いながら帰宅途中に再びauショップに立ち寄り、良くチェックしてほしいと申し出るとどうもau側に設定ミスがあったとのこと
その場にて即解決しましたが、このままサポートセンターに持ち込んだら解決に長引いたでしょう。よく解らない通信機能の設定ですが、「言うべきことはきちんと信念を通して説明すること」が必要という事例かも?
さて本日の作品は男の隠れ家にあった作品を持ち帰って整理している作品のひとつです。二度ほど本ブログに投稿している作品です。
リメイク 太公望 伝狩野融川筆
絹本水墨軸装 軸先 合箱二重箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦217*横310
本作品は太公望を描いた作品の中でもかなりの優品だと思っています。破墨山水で太公望を描いていますが、破墨山水とは定説はありませんが、山水画にて素地と白地を残して周囲に墨の地隈を施して白地そのものが物象を表現するように描くという意味であるという説がああります。その後、意味は少しずつ変化してきて、淡墨で大体を描いてその上に濃墨を加えて仕上げていく方法に解されています。
中国の逸話の人物を描いた作品ですので、明末呉須染付の作品を手前において飾っています。
描かれている「太公望」については以下の説明のとおりです。
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太公望:中国周時代の賢者。氏は呂、名は尚。魚を釣って沈思することを楽しみとしていた。時に西伯(文王)が猟に出ようと占うと、獲るものは動物ではなく自分を補佐する人物とでた。そして、渭水のほとりでこの呂尚と出会い、喜んで師とした。これより、太公望は西伯を援けて王者の師となった。これより、太公望は西伯を援けて天下の三分の二を領し、ついで武王を援けて紂を破って周の天下となし、百余歳でなお王の師であったという人物です。
太公望が江岸に釣糸を垂れる図は古来から好画材であった。海北友松、尾形光琳等の作品がある。
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実在の人物で、詳細は下記のとおりです。
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呂尚(りょ しょう):紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖、姓は姜。氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。
歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない。
『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四嶽の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。元は人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する。
また周に仕える以前は殷の帝辛 (紂王) に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌 (後の文王) のもとに身を寄せたと伝わる。周の軍師として昌の子の発 (後の武王) を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。
営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。また、斉は成王から黄河、穆棱(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は非常に長生きをし、没時に100歳を超えていたという。
しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある。
春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った。呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は唐代に重要視され、731年に玄宗によって呂尚と前漢の張良を祀る太公廟が各地に建立された。760年に粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。また、古今の名将十人が唐代の史館により選ばれ、太公望と共に祀られた(武廟十哲)。782年、徳宗の命により唐代の史館が新たに六十四人の名将を選出し、武成王廟に合祀された(武廟六十四将)。明の時代に入ると、洪武帝は周の臣下である呂尚を王として祀るのは不適当であるとして、武成王廟の祭祀を中止させた。
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本作品を狩野融川と断定はできません。印章も狩野融川の名の「寛信」なのか、または別人物の「実信」なのか判然としませんし、狩野融川の別号に「実信」や「丁楽」の両方とも記述がありません。落款の「了楽」の判断は後学によることとしています。
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狩野寛信:安永6年生まれ、文化12年没(1777年~1815年)、享年38歳。別号を青悟齋。昆信(閑川)の子で、性格は豪爽であったという。門下には志村融晶、沖融門、関岡融山、長谷川融記、町田融女らがいる。
将軍徳川家斉の時に朝鮮王に贈り物として、近江八景を屏風に描くように依頼されたが、老中阿部豊後守にその画の金砂が薄いことを指摘された。寛信は、近景は濃くして、遠景は薄いものであり直す必要はないと主張した。それでも老中は直すように指示した。寛信は憤慨し、よき画家というものは俗世間の要求に屈服しかねるといい、城を下る途中の輿の中で、割腹して果てた。まことに豪爽としかいいようのない性格である。
本作品も寛信ぼ作品ならば、そのこのような性格を如実に表した作品と言えよう。
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波の表現された生地の表具も良い。小品ながら、大事にしたい作品のひとつであると考えています。整理が終了したらまた元の男の隠れ家に戻しておきます。
描いた画家についていつか解る時がくると思いながら、入手してから30年近く経ちます。百歳までは生きられないでしょうが、いつか誰が描いた作品か解る時が来ると思っていますが・・・。