夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

五月の節句 真野暁亭筆 その2

2019-02-11 00:01:00 | 掛け軸
季節外れの作品の投稿ですがご容赦願います。

五月の節句 真野暁亭筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2080*横560 画サイズ:縦1250*横410

 

幼少時から絵を好み、明治17年(1884年)3月、10歳で父に連れられ暁斎に入門しています。暁斎に入門して暫く後、暁亭は暁斎の内弟子となり、河鍋家に寝泊りしていたといわれます。



『河鍋暁斎絵日記』の明治17年8月14日の絵に、河鍋暁翠らとともに枕を並べている様子も描かれています。



明治22年4月、暁亭15歳の時に師暁斎が亡くなった後も、河鍋暁雲・暁翠・土屋暁春ら先輩が内国勧業博覧会や日本美術展覧会で活躍するのとは対照的に、絵画修行に励んでいます。

明治26年(1893年)には京阪方面へ旅行し、西方寺(茨木市)や九品寺、月照寺などに参拝、スケッチを残している。暁亭は終業熱心で、鹿嶋清兵衛は「暁亭は勉強家なり」と評している。



明治27年(1894年)の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「虎図」を出品し三等褒状を受賞する。
明治34年(1901年)11月の絵画研究会に「塔図」を出品、三等賞銅印を得ている。
明治35年(1902年)4月には「布袋図」を出品し、褒状一等を受賞した。
明治34年の美術展覧会に、自らの出品ではなかったが藤井祐敬という人が出品した暁亭の「謡曲百萬図」が二等銀賞を受賞している。また、日月会、大東絵画協会、巽画会会員になっている。
明治40年(1907年)、東京勧業博覧会に「愛児」を出品、三等賞牌受賞。

文展開設では正派同志会(旧派)結成に評議員として参加した。この後の約20年間は何故か美術展覧会の出品を控えているが、昭和3年(1928年)から昭和8年(1933年)にかけて計5回の美術展覧会にも5点の屏風ものと1点の軸装と思われる作品を出品、そのうち2回入賞を果たしている。

昭和4年(1929年)の第81回美術展覧会の時、「杉」6曲1双屏風が三等賞銅牌を、昭和6年(1931年)の第87回美術展覧会の時、「猿」6曲1双が同じく三等賞を受賞している。暁亭は昭和6年に日本美術協会の会員となっていた。



暁亭は20歳の時に京阪へ旅行した他、30歳以降晩年まで、北は青森から西は京都、大正時代には朝鮮、中国にも旅行している。特に東北地方は縁が深い。

明治38年(1905年)岩手県盛岡で催された四条派の絵師藤島静邨の画会に特別参加し、当地に長逗留したため、盛岡には多くの作品が残っているという。

青森県五所川原市の太宰治記念館 「斜陽館」には来歴不明の「四季図襖絵」8面が所蔵され、福島県河沼郡柳津町の円蔵寺山門にある二枚の龍図天井画も暁亭の筆である。

東北地方にはまだ多くの作品が眠っていると見られる。

  

暁亭も暁斎同様に無類の酒好きであったとみられ、昭和8年に栃木県日光市の金谷旅館に泊まりこみ、輪王寺の襖絵を描いていたが、体調を崩してしまい、翌昭和9年に東京へ戻り、8月11日に食道癌で没した。享年61。なお、暁亭も絵日記をつけていたといわれる。



本作品はスケッチ力にも優れた、なんとも微笑ましい作品だと思いませんか?


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。