
ながらく続いた自宅の天井と壁の張替え工事もそろそろ終わりに近づき、工事の完成に目途が付きました。

エアコン、照明器具、カーテン、などが復旧しました。とりあえずテレビも一台だけ復帰して本日から食事ができそうです。

家内と息子は食器棚の掃除・・。埃がかなり棚内部に入り込んでいるようです。ついでに断捨離・・。

最後にセキュリテイなどの機器を収める棚の工事が残っていますが、こちらは当方の収まりに指示通りかな?
3度自宅を建てないと満足のいく家は建たないとはさもありなん。一度の新築と増築、三度のリフォームを経験すれど、自分で思うような家を建てられるのはまだまだ・・。

さて我が郷里の画家、寺崎廣業の作品は市場に数多く出回っています。横山大観と並び賞せられた画家ながら、早世したこととあまりに多作であったことから現在ではその評価は低いものとなっていますが、美人画や出来の良い作品は未だに評価は高いもののあります。
本日紹介する作品は明治末期から大正期かけての寺崎廣業の神髄を見るような出来の良い作品で、「阿倍仲麻呂の観月」を題材にした作品です。この「阿倍仲麻呂の観月」を題材にした作品は本ブログでは以前に下記の作品を紹介しています。
仲麿観月図 (その1) 寺崎廣業筆 明治32年(1899年)頃
絹本着色軸装 合箱入
全体サイズ:縦2140*横563 画サイズ:縦1120*横418
絹本着色軸装 合箱入
全体サイズ:縦2140*横563 画サイズ:縦1120*横418

上記の作品は落款の「廣業」(二本廣業)の書体から寺崎廣業が初期の号である「秀斎」を落款に記していた頃に近い時期の作品です。明治30年頃作に相違ないと思われます。
その作品に比して本日紹介する作品は明治末期の頃に描かれた作品のようです。寺崎廣業が最盛期の頃で依頼された作品など数多くの作品を描いていた頃です。それゆえこの頃の作品は席画のように筆数の少ない即興的な作品も多く、本作品のように丁寧に描かれた作品とは区別すべきものでしょう。

晩年の佳作 仲麿観月図 (その2) 寺崎廣業筆
絹本水墨淡彩軸装 誂箱入
全体サイズ:縦2047*横698 画サイズ:縦1228*横493


「阿倍仲麻呂の観月を題材にした作品」の構図は阿倍仲麻呂が詠んだ和歌である「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」によるところが大きいのでしょう。

阿倍(安部)仲麻呂の生きていた時代は、観月や七夕の風習が宮中で行われるようになった唐の時代、 玄宗皇帝や楊貴妃の時代であり、そのような時代に仲麻呂は奈良時代の遣唐使で、吉備真備らとともに唐に留学します。
た。

阿部仲麻呂は玄宗皇帝に秘書監として仕え、 「李白」「王維」などと交際があったようです。 仲麻呂は何度か玄宗皇帝に帰国をしたいと願い出ましたがその度断られてしまいました。ようやくその帰国の許可が出て揚州の黄泗浦(こうしほ)の港から出航しようとしたのが 天宝12年11月15日でした。しかし1羽の雉が第1船の前を飛んだことを理由に、 翌16日に日本へ向けて出航しました。この時に折から海上に昇った月を見て「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」の歌を詠んだのだそうです。

黄泗浦から日本へ向けて4船が出航しましたが、第二船には有名な鑑真和上が
乗っていました。4船は沖縄あたりまで行ったのですが暴風に遭遇します。第2船から第4船までは無事日本までたどり着けましたが、 仲麻呂の乗っていた第1船は安南まで漂流してしまいます。仲麻呂は窮地の中なんとか唐の都まで帰りますが、 安禄山の変が起きたため日本へ向けての船は70年も出ませんでしたので、仲麻呂は唐で生涯を閉じることになってしいました。

明治末期から大正時代にかけての佳作と推定していますが、明治43年(1910)に寺崎廣業は横山大観・山岡米華らと約3カ月の中国を旅行し、万里の長城などを訪問しています。帰国の後に描いたものと思われ、この旅行からなんらかのインスピレーションを受けた作品化と思います。

濃淡をつけた華麗な水墨の筆致は寺崎廣業の作品のなかでも群を抜いた出来であり、晩年の美人画や山水画とは違った趣がありますね。

本作品中の落款と印章は上記の写真のとおりです。共箱はむろん収納する箱もない状態での入手となっています。
当方での寺崎廣業の真贋はほぼ迷わず判断できるようになりつつあります。