夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

護良親王図 寺崎廣業筆 その66

2018-10-04 00:01:00 | 掛け軸
先月に3連休は展覧会ついでにあちこちへ・・。まずは息子と乳しぼり体験。



乗馬体験、途中で馬がとまり馬糞を放出するハプニング。



ついでにドローンの操縦体験。



宿に着くまえに西園寺公望の別邸訪問。



このような和風建築を体験させるのも大切なことだと思っています。小生らが育ったこのような空間を大切にして欲しい。



さらに夕食前に遊園地。



子供とのめぐるましい一日・・



さて本日は寺崎廣業の明治30年頃の佳品の紹介です。滅多に市場に出ない寺崎廣業の代表作のひとつでしょう。

本日紹介する作品はもともとは母の実家にて所蔵していた作品ですが、一度手放されることになりそうだったのですが、知り合いからの紹介で縁あって当方の所蔵となりました。本作品は寺崎廣業を語る上でなくてはならない資料的価値のある作品です。最近紹介しました「和漢諸名家筆蹟縮図 寺崎廣業筆 水墨淡彩巻物三巻 」と同時に入手した作品です。それなりの代価は支払いましたが、当方で所蔵すべき作品と思い入手しました。

護良親王図 寺崎廣業筆
水墨着色絹本軸装 幡山鑑定箱 布タトウ
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横498*縦1148



この作品は昭和24年5月26日に催された「寺崎廣業名作展出品(主催:秋田魁新報社)」に出品された作品です。「秋田魁新報社」は寺崎廣業の出身地の秋田の新聞社です。



題材となった「護良親王」とは別名「大塔宮」と呼ばれた後醍醐天皇の皇子のことです。



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護良親王:(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年)~建武2年7月23日(1335年8月12日)。鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。



延慶元年(1308年)、尊治親王(後の後醍醐天皇)の子として生まれる。6歳の頃、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入院した。大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることからである。正中2年(1325年)には門跡を継承し、門主となる。

後醍醐天皇の画策で、嘉暦2年(1327年)12月から元徳元年(1329年)2月までと、同年12月から元徳2年(1330年)4月までの2度に渡り、天台座主となる。

『太平記』によると、武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む極めて例がない座主であったという。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすと、還俗して参戦する。

以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2年に渡り幕府軍と戦い続けた。しかし討幕が成った後、その功労者足利尊氏(高氏)と相容れず、信貴山(奈良県生駒郡平群町)を拠点にして上洛せず尊氏を牽制した。

後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、尊氏は鎮守府将軍となった。建武政権においても尊氏らを警戒していたとされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に、義良親王(後の後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させた。



『太平記』によると、尊氏のほか、父の後醍醐天皇やその寵姫阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のために配下の僧兵を集めて辻斬りを働いたりした。このため、征夷大将軍を解任され、建武元年(1334年)冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐天皇の意を受けた名和長年、結城親光らに捕らえられる。その上で足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟足利直義の監視下に置かれたと述べられている。その一方、『梅松論』によると、兵部卿の護良親王は後醍醐天皇の密命を受けて、新田義貞、楠木正成、赤松則村とともに、尊氏を討つ計画を企てた。しかし、尊氏の実力になかなか手を出せずにいた。建武元年(1334年)夏に、状況が変わらないことに我慢がならなくなった護良親王は、令旨を発して兵を集めて尊氏討伐の軍を起こした。これを聞いた尊氏も兵を集めて、備えた。その上、尊氏は親王の令旨を証拠として、後醍醐天皇に謁見した。これを聞いた後醍醐天皇は「これは、親王の独断でやったことで、朕には預かり知らぬことである」と発言して、護良親王を捕らえて尊氏に引き渡したと述べられている。

いずれにせよ父・後醍醐天皇との不和は、元弘の乱に際し討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことに始まると言われ、皇位簒奪は濡れ衣であると考えられている。失脚の前兆として、護良親王派の赤松則村が、勢力を著しく削減されていた。



翌年、北条時行を奉じた諏訪頼重による中先代の乱が起き、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、頼重らに奉じられる事を警戒した直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。護良親王は前征夷大将軍であり、親王が時行に擁立された場合には宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであった。一方で鎌倉に置かれていた成良親王は京都に無事送り届けられていることから、直義による護良親王殺害は問題とされることはなかったと見られている。親王殺害の2日後に鎌倉は北条軍によって陥落した。



『太平記』では、東光寺の土で壁を固めた牢に閉じ込められたことになっており(土牢は鎌倉宮敷地内に復元されたものが現存)、直義の家臣・淵辺義博に殺害されて首を刎ねられた護良親王は、側室である藤原保藤の娘の南方に弔われたと伝えられている。南方と護良親王との間には鎌倉の妙法寺を開いた日叡が生まれ、後に父母の菩提を弔った。さらに護良親王の妹が後醍醐天皇の命を受けて、北鎌倉にある東慶寺の5代目の尼として入り、用堂尼と呼ばれた。

東慶寺には護良親王の幼名「尊雲法親王」が書かれた位牌が祀られている。宮内庁が管理する墓所は神奈川県鎌倉市二階堂の理智光寺跡で、妙法寺にも墓がある。

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この作品は幽閉されていた「護良親王」を描いた作品です。護良親王が実際に幽閉されたのは、下記の写真のあるようなこのような岩窟ではなく、土蔵造りの牢屋だったと考えられています。




箱書には「昭和16年晩春幡山道人鑑定」とあります。寺崎廣業の落款が「二本廣業」であることから明治30年代までに描かれた作品であると推測されます。



本作品はもともと手元に依頼されて手元に保管されていた作品ですが、故あって手元を離れ、その後に購入できた作品です。

  

箱書きなど由来はきっちりしており、元の所蔵者は県議会議長、町長を務めた方のようです。

 

歴史的に護良親王をどう評価するかは人によって千差万別・・、家内は絵が暗いと言って忌み嫌いますが、出来は非常に良い作品です。

本来は郷里の美術館で所蔵するが適切でしょうが、今は小生の所蔵がふさわしいと考えています。多作で忌み嫌われる面もある寺崎廣業の作品ですが、このような秀でた作品もあります。


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