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青森市内にある三内丸山遺跡が世界文化遺産の登録されるようですが、小生は遺産発掘期間中(遺跡調査真っ盛り)に現地に一年ほど常駐していたことがあり思い出深い地です。物見やぐらの柱の跡が発見された前後のことで遺跡調査完了後に県立野球場を本格的に建設する方針で初期工事が進められていました。工事が途中で中止となりましたが、当時は工事と大々的な遺跡調査が並行して進められ、500人以上の人が遺跡調査を行なっているという圧巻の眺めでした。5年ほど前に帰省途中に新幹線の新青森駅で降りて観てきましたが、たしかに当時の方が遺跡の様子がもっとすごかった・・・。
さて本日は富岡鉄斎の作品の紹介です。
生涯で1万点にも及ぶ作品を描いたとされる富岡鉄斎ですが、それと同等以上の数の贋作があるのではないかと思われるほど贋作が多いとされています。
本作品については当方では「筋の良い作品」と思っています。あくまでも素人の直感であり、正式に富岡鉄斎の作品の真贋を判断することは到底無理ですが、素人なりに「筋の良い作品」作品と称させていただきます。ただし本ブログでは贋作の多い画家で断定できない作品であり、いつものように「伝(贋作考)」と題しています。
*ところで掛け軸では縦の長さを2メートルを超える長条幅の作品は多数あり、このような軸を飾る場所は常に複数必要だと痛感しています。
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家内は「あなたの話を聞いていると蒐集した作品があらかたいい作品になってしまう・・」と小生の蒐集作品、とくに富岡鉄斎などの南画作品はまったく信用していないようです。あたらずもとうからず、ただし当方は馬耳東風・・・
贋作考 清士帰山図 伝富岡鉄斎筆 大正2年(1913年)作
紙本淡彩絹装軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横315*縦2180 画サイズ:横190*縦1370
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この作品は富岡鉄斎が80歳以降に色彩を交えた多くの優品を描いた少し前の頃の作品ですが、いい出来です。またしても家内曰く「ちょっとすっきり、きれいすぎない?」・・、またしても「あたらずともとうからず、馬耳東風」・・・
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当方の入手の根拠は実は賛にある「清士帰山」ですが・・。
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この作品のポイントは落款にある「清士帰山 七十斉七高壽 押印」と箱書に記された「大正弐年一月自題簽 於銅鼓窟 鉄斎七十又八翁 押印」にあります。ともかく富岡鉄斎が自分で言うように賛から作品を読み取って欲しいということでしょう。
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1912年、富岡鉄斎が77歳の時に 洛東田中村に羅振玉(清末の著名な金石考証学者 辛亥革命を逃れて京都に住む)を訪問しています。 「謙蔵、奉天出鉄斎 これを喜び、銅鼓堂と号した。」と資料の年譜に書かれています。
*前の所蔵者は当方と同じくこの作品を描いた由来を知っていたのでしょう。箱の誂えがしっかりしています。
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まず謙蔵とはご存知のように「富岡謙蔵:(1873~1918) 富岡鉄斎の長子で、邪馬台国近畿説の先駆的な名著とされる「古鏡の研究」などを著している。名ははじめ建三のち謙三、明治40年代前.半より謙蔵と称した。」のことです。
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作品を観るには作者や作品の背景の知識が必要ですが、「1912年、富岡鉄斎が77歳の時に 洛東田中村に羅振玉(清末の著名な金石考証学者 辛亥革命を逃れて京都に住む)を訪問しています。」ということが解っていないとこの作品は真贋云々の前に鑑賞すらできないのでしょう。
南画で一番肝要なのは、模写だろうとなんだろうと作品そのものを制作した意図、最初から作品の真贋云々という輩は相手にしないことです。
それでは「羅 振玉」なる人物はというと下記の資料のとおりです。
*************************************************
羅 振玉(ら しんぎょく):清末民初から満州国にかけて活躍した考古学者、教育者。字は「式如」または「叔蘊」、号は「雪堂」。明、清時代の皇帝文書を私財を投じて保存したことで原籍は浙江省上虞。先祖の代に江蘇省淮安河下露家橋に移り住んでおり、羅振玉もこの地で1866年に生まれた。
1891年、劉鶚と知り合い、劉鶚の持つ亀甲獣骨文字の拓本を目にする機会を得る。羅振玉はそのあとを継いで甲骨文字の研究に打ち込み、『殷虚書契考釈』を発表した。そのため王国維・董作賓・郭沫若とともに「甲骨四堂」と称される。 甲骨文字研究以外では敦煌学の分野にも大きな役割を果たしている。
1909年、敦煌文献を獲得したポール・ペリオと会い、まだ残されているものがあると知ると、敦煌から残りのものを北京に運ばせて、京師図書館に収蔵させた。
その他に1896年に上海に東文学社を設立し、日本語を翻訳できる人材を育成し、沈肱・樊少泉・王国維らを輩出した。 また、紫禁城に保存されていた明清時代の档案(行政文書)が古紙として処分されそうになっているのを知り、急いで古紙業者から買い戻し、貴重な歴史資料が失われるのを防いだ。
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辛亥革命後、来日し京都で多くの日本人学者と交流を持ち、帰国後は溥儀の家庭教師を務めた。
1932年(大同元年)3月9日、満州国が正式に成立すると、翌10日に参議府参議に任命された。後に日満文化協会会長も務めている。 皇帝文書の保存という功績がある一方で、満州国建国に関わったこともあり、現在の中国では人物的評価がわかれている。
*************************************************
作品の購入の際は印章や落款の検証は記憶で行うしかなく、資料との比較はじっくりとあとで行うしかありません。作品そのものと向き合って判断し、購入後に資料と照らし合わせて贋作と解ろうと自分の鑑識眼がそこまでということになります。購入の際に最初から資料を見る人は鑑識眼が皆無であると自ら認めているようなものであり、また相手にも不作法で失礼な所作となります。
落款には「清七十斉七高壽」とあり、箱書には「大正弐年一月自題簽 於銅鼓 斎?鉄斎七十又八翁 押印」とあります。大正元年(1912年)は7月30日からですが、描いたのは大正元年で箱書きしたのは大正2年だろうとも・・・、また富岡鉄斎の誕生月日は1月25日ですから、大正2年の1月に描いて誕生日を過ぎてから箱書を記したとも考えられます。箱書にならって、ここでは大正2年の作としておきます。
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本ブログでは幾つかの作品について共箱を掲載していますが、鉄斎の作品は共箱もひとつの作品と言えるかもしれません。
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印章の資料との比較は下記のとおりです。箱書には「清士帰山」と題され、箱裏には大正貮年(1913年)一月自題簽 於銅鼓 斎鉄斎七十又八翁 押印」とあり、印章は朱文白方印「東坡居士」が押印されています。画中には賛として「清士帰山 七十斉七高壽」と記され、「百練」、「無僊」(鉄斎の字は無倦)の白文朱方印と朱文白方印」の累印と「鉄斎」の主文白方印が押印されています。
「百練」、「無僊」(鉄斎の字は無倦)の累印
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よく押印される印章「鉄斎? 鉄農人?」 印影がちょっと違うようですので、他の資料との比較が必要かもしれません。
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箱書の印章は下記のとおりです。「東坡居?士」
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印章は違うと言えば違う、同じと言えば同じ、所詮印章の確認とはそんなもの。なお共箱の墨が勢い余って脇に付くのも富岡鉄斎のご愛敬のひとつです。
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ある意味で鑑賞する側の心がけ次第で作品の真贋は決まるようなもので、この作品を「筋のよいもの」としている小生の審美眼、鑑識眼のレベルは今はこのレベル
いつもながらの馬耳東風・・・。
さて本日は富岡鉄斎の作品の紹介です。
生涯で1万点にも及ぶ作品を描いたとされる富岡鉄斎ですが、それと同等以上の数の贋作があるのではないかと思われるほど贋作が多いとされています。
本作品については当方では「筋の良い作品」と思っています。あくまでも素人の直感であり、正式に富岡鉄斎の作品の真贋を判断することは到底無理ですが、素人なりに「筋の良い作品」作品と称させていただきます。ただし本ブログでは贋作の多い画家で断定できない作品であり、いつものように「伝(贋作考)」と題しています。
*ところで掛け軸では縦の長さを2メートルを超える長条幅の作品は多数あり、このような軸を飾る場所は常に複数必要だと痛感しています。
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家内は「あなたの話を聞いていると蒐集した作品があらかたいい作品になってしまう・・」と小生の蒐集作品、とくに富岡鉄斎などの南画作品はまったく信用していないようです。あたらずもとうからず、ただし当方は馬耳東風・・・
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贋作考 清士帰山図 伝富岡鉄斎筆 大正2年(1913年)作
紙本淡彩絹装軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横315*縦2180 画サイズ:横190*縦1370
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この作品は富岡鉄斎が80歳以降に色彩を交えた多くの優品を描いた少し前の頃の作品ですが、いい出来です。またしても家内曰く「ちょっとすっきり、きれいすぎない?」・・、またしても「あたらずともとうからず、馬耳東風」・・・
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当方の入手の根拠は実は賛にある「清士帰山」ですが・・。
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この作品のポイントは落款にある「清士帰山 七十斉七高壽 押印」と箱書に記された「大正弐年一月自題簽 於銅鼓窟 鉄斎七十又八翁 押印」にあります。ともかく富岡鉄斎が自分で言うように賛から作品を読み取って欲しいということでしょう。
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1912年、富岡鉄斎が77歳の時に 洛東田中村に羅振玉(清末の著名な金石考証学者 辛亥革命を逃れて京都に住む)を訪問しています。 「謙蔵、奉天出鉄斎 これを喜び、銅鼓堂と号した。」と資料の年譜に書かれています。
*前の所蔵者は当方と同じくこの作品を描いた由来を知っていたのでしょう。箱の誂えがしっかりしています。
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まず謙蔵とはご存知のように「富岡謙蔵:(1873~1918) 富岡鉄斎の長子で、邪馬台国近畿説の先駆的な名著とされる「古鏡の研究」などを著している。名ははじめ建三のち謙三、明治40年代前.半より謙蔵と称した。」のことです。
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作品を観るには作者や作品の背景の知識が必要ですが、「1912年、富岡鉄斎が77歳の時に 洛東田中村に羅振玉(清末の著名な金石考証学者 辛亥革命を逃れて京都に住む)を訪問しています。」ということが解っていないとこの作品は真贋云々の前に鑑賞すらできないのでしょう。
南画で一番肝要なのは、模写だろうとなんだろうと作品そのものを制作した意図、最初から作品の真贋云々という輩は相手にしないことです。
それでは「羅 振玉」なる人物はというと下記の資料のとおりです。
*************************************************
羅 振玉(ら しんぎょく):清末民初から満州国にかけて活躍した考古学者、教育者。字は「式如」または「叔蘊」、号は「雪堂」。明、清時代の皇帝文書を私財を投じて保存したことで原籍は浙江省上虞。先祖の代に江蘇省淮安河下露家橋に移り住んでおり、羅振玉もこの地で1866年に生まれた。
1891年、劉鶚と知り合い、劉鶚の持つ亀甲獣骨文字の拓本を目にする機会を得る。羅振玉はそのあとを継いで甲骨文字の研究に打ち込み、『殷虚書契考釈』を発表した。そのため王国維・董作賓・郭沫若とともに「甲骨四堂」と称される。 甲骨文字研究以外では敦煌学の分野にも大きな役割を果たしている。
1909年、敦煌文献を獲得したポール・ペリオと会い、まだ残されているものがあると知ると、敦煌から残りのものを北京に運ばせて、京師図書館に収蔵させた。
その他に1896年に上海に東文学社を設立し、日本語を翻訳できる人材を育成し、沈肱・樊少泉・王国維らを輩出した。 また、紫禁城に保存されていた明清時代の档案(行政文書)が古紙として処分されそうになっているのを知り、急いで古紙業者から買い戻し、貴重な歴史資料が失われるのを防いだ。
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辛亥革命後、来日し京都で多くの日本人学者と交流を持ち、帰国後は溥儀の家庭教師を務めた。
1932年(大同元年)3月9日、満州国が正式に成立すると、翌10日に参議府参議に任命された。後に日満文化協会会長も務めている。 皇帝文書の保存という功績がある一方で、満州国建国に関わったこともあり、現在の中国では人物的評価がわかれている。
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作品の購入の際は印章や落款の検証は記憶で行うしかなく、資料との比較はじっくりとあとで行うしかありません。作品そのものと向き合って判断し、購入後に資料と照らし合わせて贋作と解ろうと自分の鑑識眼がそこまでということになります。購入の際に最初から資料を見る人は鑑識眼が皆無であると自ら認めているようなものであり、また相手にも不作法で失礼な所作となります。
落款には「清七十斉七高壽」とあり、箱書には「大正弐年一月自題簽 於銅鼓 斎?鉄斎七十又八翁 押印」とあります。大正元年(1912年)は7月30日からですが、描いたのは大正元年で箱書きしたのは大正2年だろうとも・・・、また富岡鉄斎の誕生月日は1月25日ですから、大正2年の1月に描いて誕生日を過ぎてから箱書を記したとも考えられます。箱書にならって、ここでは大正2年の作としておきます。
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本ブログでは幾つかの作品について共箱を掲載していますが、鉄斎の作品は共箱もひとつの作品と言えるかもしれません。
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印章の資料との比較は下記のとおりです。箱書には「清士帰山」と題され、箱裏には大正貮年(1913年)一月自題簽 於銅鼓 斎鉄斎七十又八翁 押印」とあり、印章は朱文白方印「東坡居士」が押印されています。画中には賛として「清士帰山 七十斉七高壽」と記され、「百練」、「無僊」(鉄斎の字は無倦)の白文朱方印と朱文白方印」の累印と「鉄斎」の主文白方印が押印されています。
「百練」、「無僊」(鉄斎の字は無倦)の累印
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よく押印される印章「鉄斎? 鉄農人?」 印影がちょっと違うようですので、他の資料との比較が必要かもしれません。
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箱書の印章は下記のとおりです。「東坡居?士」
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印章は違うと言えば違う、同じと言えば同じ、所詮印章の確認とはそんなもの。なお共箱の墨が勢い余って脇に付くのも富岡鉄斎のご愛敬のひとつです。
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