夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

リバイバル 松 和漢朗詠集 古今和歌集

2024-02-11 00:01:00 | 掛け軸
補修しなくてはなりない作品をチェックしていたら、収納箱に不具合のある下記の作品がありました。



リバイバル 松 和漢朗詠集 古今和歌集
紙本刺繍軸装 手書紙 古杉箱
全体サイズ:縦1150*横620 画サイズ:縦290*横435



和漢朗詠集:巻下 松・四二五  源順
「十八公栄霜後露 一千年色雪中深」

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源 順(みなもと の したごう):延喜11年(911年) - 永観元年(983年))は、平安時代中期の学者・歌人。嵯峨源氏の一族で、大納言源定の孫・左馬允源挙(みなもと の こぞる)の次男。子に貞がある。下総権守・和泉守等を歴任し、極官は従五位上、能登守。三十六歌仙の一人に数えられる。大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている

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【訓読】十八公じふはちこうの栄は霜の後のちに露あらはれ 一千年いつせんねんの色は雪の中うちに深し
「十八公しふはつこうの榮えいは霜の後に露あらはれ 一千年いつせんねんの色は雪の中うちに深し」

【通釈】松の栄誉は、霜の後にも色を変えないことで顕れる。一千年変わることのない色は、降り積もった雪の中でひときわ鮮やかになる。

【付記】「松」の字を分解して「十八公」とした。出典は源順の詩「歳寒知松貞」。

 「松」の字を分解すると「十」と「八」と「公」の三つに分解できる。 松は、神を待つ(松)木、年中緑を保ち、岩場など痩せ地にも生育するので、尊い存在として尊敬の念と込めて、「松」の字とを分解し「公」の字が付くようにして「十八公」とも呼ばれている。これで「まつ」と読んだり、「じゅうはちこう」と読んだりする。

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【関連歌】上0741、上0847
 
古今和歌集 巻第一 春歌上  源宗于
ときはなる まつのみどりも はるくれば いまひとしほの いろまさりけり 

源 宗于(みなもと の むねゆき):生年不詳 - 天慶2年11月22日(940年1月9日))は、平安時代前期から中期にかけての官人・歌人。光孝天皇の皇子是忠親王の子。娘に閑院大君がいる。官位は正四位下・右京大夫。三十六歌仙の一人。

寛平の御時后宮の歌合せに詠んで番われた歌。 
ひとしほ:原義は、布などを染め汁に一度入れて浸すこと。

松は常緑樹で一年を通して色が変わらないが、春が来るとすべての木々が緑を増してあざやかに見えるように、松も一段とあざやかさを増している。 
春の到来は松の色さえもあざやかに見えると詠んだ歌。

「ときは」は樹木について言う時は一年中色を変えない常緑樹を言います。松はもとより寿命の長い樹木として知られ、長寿の象徴とされましたが、「ときは木」である松は霜や雪に遭っても色を変えずに耐えるところから不変の象徴として好まれ、さらに永続する時間を示唆するものにもなりました。詩歌の世界では、雪や月、風と取り合わせられることが多いので季節としては冬の素材です。その一方で縁起の良さから新年の風情にもよく詠まれました。この世の栄えを永遠までと祈る心に重ねられるからです。
 
 かつて陰暦で暮らしていた頃は、新年は基本的に立春(現行暦の2月4,5日頃)に重なりました。新春は名実ともに春でしたが、現在のお正月「新春」は陰暦で言えばまだ11月の末ですから自然界は冬というほかありません。風凍る中で、伝統的な新春の季節の景物を詩歌に詠み、書くのは、実感とかけ離れすぎてしまいます。そんな暦事情の中、松は新年の清新さとおめでたい気分と今の季節感とを無理なく託すことができる題材として貴重かもしれません。

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ブログへのコメントより Unknown (minchou)  2014-06-07                                

「一見したところ、表具や料紙、書風からして時代は江戸前期、筆者は後水尾天皇を中心とした寛永文化サロン周辺の人物かと。誰々との特定は難しいですが、あえて絞り込んでみますと後陽成帝の多くの皇子の内、法親王系(9人)の2~3の方に特徴が近い気もします。中でも特に似ているのが 昭高院門跡道周法親王という方ですが(ひょっとするとひょっとしてというレベル)、この方は22才で早逝されており、遺墨が少ないゆえもあってもしそうならその意味では貴重品であり、マニアックな法親王趣味の人(全国で一人か二人?)には垂涎ものかも知れません。(実は私がそうなのでした。ホホー数千円?! そうですかあ、ダラ~、処分される時は宜しくー。笑)」

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後陽成帝後陽成天皇:(ごようぜいてんのう)元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱を和仁(かずひと)といい後に周仁(かたひと)と名乗った。
天正14年(1586年)7月に正親町天皇の東宮であった誠仁親王が薨去し、皇孫に当たる周仁親王が同年12月15日に、皇祖父にあたる正親町天皇から譲位され受禅した。
後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府の開始にまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。天正16年(1588年)に秀吉の演出した天皇の聚楽第行幸は盛大に行われた。二十五箇条の覚書によれば文禄の役では秀吉が明を征服した暁には後陽成天皇を明の皇帝として北京に遷し、政仁親王か智仁親王を日本の天皇にしようとした。また秀吉に切腹を命じられた豊臣秀次の菩提を弔う日秀尼(秀次の母、秀吉の姉)に、瑞龍寺 (近江八幡市) の寺号を与えた。(瑞龍寺は日蓮宗唯一の門跡寺院となった)秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させている。慶長8年(1603年)に、後陽成天皇は徳川家康を征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開く。朝廷権威の抑制をはかる幕府は干渉を強め、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となった。慶長14年(1609年)に宮中女官の密通事件(猪熊事件)では、幕府の京都所司代に厳罰を要請している。

 これに先立って後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を皇位継承者とした。ところが秀吉が死ぬとこれを嫌って弟宮である八条宮智仁親王への譲位を望むが、廷臣や家康に反対される。関ヶ原の戦い後、後陽成天皇は家康の了承を得て良仁親王を強引に仁和寺で出家させて第3皇子・政仁親王を立てる。慶長16年、政仁親王(後水尾天皇)に譲位して、仙洞御所へ退く。だが、後水尾天皇とも上手く行かず、父子の間は長く不和であり続けたと伝えられている。元和3年(1617年)に崩御、宝算47歳。葬儀は火葬で行われた。後陽成天皇より後の天皇は全員が土葬で葬られているので、後陽成天皇は、平成の現在において、最後に火葬で葬られた天皇である。自著に『源氏物語聞書』『伊勢物語愚案抄』などがあり、『日本書紀』を慶長勅版として発行させる。

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コメントにて可能性のあるとされた「昭高院門跡道周法親王」は下記の経歴のある人物のようです。

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昭高院門跡道周法親王:江戸前期の親王。昭高院門跡。後陽成天皇皇子。通称足宮・聖護院宮・興善寺。二品に叙せられた。寛永11年(1634)薨去、22才。

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後水尾天皇:(ごみずのおてんのう)文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。
 後陽成天皇はかねてから第1皇子・良仁親王(覚深法親王)を廃して、弟宮の八条宮智仁親王を立てる事を望んでいた。だが、関ヶ原の戦いによって新たに権力の座を手に入れた徳川家康もまた皇位継承に介入し、良仁親王の出家(皇位継承からの排除)は認めるものの、これに替わる次期天皇として嫡出男子であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、結果的には自己の希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対しても良仁親王と同様に冷淡な態度を取るようになった。
慶長16年(1611年)3月27日に後陽成天皇から譲位され践祚。4月12日に即位の礼を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。
 
 江戸幕府は朝廷の行動の統制を目的として慶長18年6月16日(1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」を制定し、次いで、豊臣宗家滅亡後の慶長20年7月17日(1615年9月9日)には「禁中並公家諸法度」を公布した。以後、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれた上に、その運営も摂政・関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏を通じて幕府の承諾を得る事によって初めて施行できる体制へと変化を余儀なくされた。これによって摂家以外の公卿や上皇は朝廷の政策決定過程から排除され、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる事を目指していた。
 
 天皇が即位すると大御所徳川家康は徳川和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。しかし、入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、天皇と寵愛の女官・四辻与津子との間に皇子・皇女が居た事が徳川秀忠に発覚すると入内は問題視される、翌元和5年9月15日に秀忠自身が上洛して、与津子の振る舞いを宮中における不行跡であるとして和子入内を推進していた武家伝奏広橋兼勝と共にこれを追求した。そして万里小路充房を宮中の風紀の乱れの責任に問い丹波篠山藩に配流、与津子の実兄である四辻季継・高倉嗣良を豊後に配流、更に天皇側近の中御門宣衡・堀河康胤・土御門久脩を出仕停止にした。これに憤慨した天皇は退位しようとするが、幕府からの使者である藤堂高虎が天皇を恫喝、与津子の追放・出家を強要した(およつ御寮人事件)。元和6年(1620年)6月18日に和子が女御として入内すると、これに満足した秀忠は、今度は処罰した6名の赦免・復職を命じる大赦を天皇に強要した。
 
 寛永2年(1625年)11月13日には皇子である高仁親王が誕生する。寛永4年(1627年)に紫衣事件、徳川家光の乳母である福(春日局)が朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は同年11月8日、幕府への通告を全くしないまま二女の興子内親王(明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。一説には病気の天皇が治療のために灸を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために退位して治療を受けたと言われているが、天皇が灸治を受けた前例(高倉・後宇多両天皇)もあり、譲位のための口実であるとされている。その一方で、中世後期以降に玉体への禁忌が拡大したとする見方も存在し、後花園天皇の鍼治療に際して「御針をは玉躰憚る」として反対する意見が存在したとする記録(『康富記』嘉吉2年10月17日条)が存在し、その後鍼治療が行われなくなったとする指摘も存在する。

 以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行う。当初は院政を認めなかった幕府も寛永11年(1634年)の将軍徳川家光の上洛をきっかけに認めることになる。その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。また、東福門院(和子)に対する配慮から後光明・後西・霊元の3天皇の生母(園光子・櫛笥隆子・園国子)に対する女院号贈呈が死の間際(園光子の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親(園基任・櫛笥隆致・園基音)への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。その一方で、本来は禁中外の存在である「院政の否定」を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には徳川家光の朝廷との協調姿勢とともに東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。晩年になり霊元天皇が成長し、天皇の若年ゆえの浅慮や不行跡が問題視されるようになると、法皇が天皇や近臣達を抑制して幕府がそれを支援する動きもみられるようになる。法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の議奏)に対して延宝7年(1679年)に幕府からの役料支給が実施されたのはその代表的な例である。

 延宝8年(1680年)に85歳の長寿で崩御し、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。なお京都市上京区の相国寺境内には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた、後水尾天皇髪歯塚が現存する。昭和60年(1985年)7月12日までは歴代最長寿の天皇でもあった。記録を抜いた昭和天皇は、「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」とコメントしている。

 日光東照宮には陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる額が掲げられており、後に板垣退助が強硬に日光東照宮の焼き討ちを要求する薩摩藩を説得する理由の1つとして挙げたとされる。

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ブログへのコメントより Unknown (minchou)  2014-06-07 
「それと表具についてなんですが、実見してないので確かなことは言えませんが、もちろんこれはウブですよね。(一部直しがあるかもしれませんが)
だとすると、この中廻しのスッキリと若やいだデザインはどう見ても中高年者のものではなく、若者用のそれとは思えませんか?
もちろん誰にでも若い時というのはあるので、だからといって即これが道周さんのものとは成らないでしょうが、少なくとも傍証の一つになるのではと思います。」

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新春の茶掛けに最適な作品のようですので、表具はむろんこのままに、箱の賛が痛んでいる部分を補修することにします。










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