
息子は夏休み・・、今週も家内のお茶の稽古に付き合ったようです。

お菓子、昼食目当てだろうが、嫌とも言わずに付き合うのは感心します。浴衣姿での作法・・・、顔つき、目つきがよく、なんだか様になってきた

お茶のお稽古に使っていただいているのは友人の故平野庫太郎氏の向付です。

工房に行くたびに幾つか平野庫太郎氏から頂いた作品ですが、家内は小服茶碗として使っています。

さて本日の作品は寺崎廣業の初期の作(明治30年頃)と判断していますが、この時期(寺崎廣業が著名となる前)に丹念に描かれた作品は資料としても貴重だろうと思います。

*手前の辰砂の大皿もまた故平野庫太郎氏の作で、平野庫太郎氏から預かっていてほしいと言われた作品です。
菊慈童図 寺崎廣業筆 明治30年(1899年)頃
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 合箱二重箱
全体サイズ:縦2330*横660 画サイズ:縦1320*横500

菊慈童とは周の穆王 (ぼくおう) に愛された侍童 (じどう)のことです 。罪を犯して南陽郡酈県 (れきけん) に流され、その地で菊の露を飲んで不老不死の仙人になったという逸話が題材です。その舞台は山の麓から霊水が湧き出る源流のようです。

謡曲「枕慈童 (まくらじどう) 」については下記に記載のとおりです。
*****************************************
謡曲「枕慈童 (まくらじどう) 」:観世流の演目「菊慈童」、他流では「枕慈童(まくらじどう)」と呼ばれています。なお、観世流にある「枕慈童」は、また別の類似曲になります。
あらすじは下記のとおりです。

中国、魏の文帝の治世に、酈縣山(れっけんざん/てっけんざん)の麓から霊水が湧き出たため、その源流を探るべく、勅使一行が派遣されました。勅使は山中に一軒の庵を見つけます。周辺を散策して様子を窺っていると、庵から、一人の風変わりな少年が現れました。勅使が怪しんで、名を尋ねると、少年は、自分は慈童という者で、周の穆王に仕えたと教えます。周の穆王と言えば、七百年もの昔の時代です。

勅使がますます怪しんで、化け物だろうと問い詰めると、慈童は、皇帝より直筆の二句(四句)の偈(経典の言葉)が入った枕を賜ったと言い、それを証拠として見せました。勅使もその有難さに感銘を受け、二人でその言葉を唱え味わうのでした。
慈童は、自分が二句(四句)の偈を菊の葉に写したところ、そこに結ぶ露が不老不死の霊水となり、それを飲み続けたから七百歳にもなったのだと語り、喜びの楽を舞います。慈童は、その露の滴りが谷に淵を作り、霊水が湧いていると述べ、勅使らとともに霊水を酒として酌み交わします。そして帝に長寿を捧げ、末永い繁栄を祈念して、慈童は山中の仙家に帰っていきました。

能では、魏の文帝の勅使が、人跡未踏の深い山中で少年姿の慈童に出会う幻想的な情景の中で物語が進行します。この謡曲は小品ではありますが、心の洗われるような、めでたく清涼な趣のある曲とされ、観る者は一時、憂き世を離れ、夢のような異郷世界に遊ぶ心地を得られる演目となっています。
*****************************************
「菊慈童図」は菊を題材としていて、9月の重陽の節句に際してよく飾られる題材の掛け軸です。

寺崎廣業の作風としては違和感がある方がおられるかもしれませんが、当方では間違いなく寺崎廣業の初期の作品と判断しています。

当方でも当初、本作品については贋作の可能性を疑いましたが、今では真作と判断しています。

共箱ではありませんが、二重箱に収められていて表具はかなりいいもので誂えられています。

非常にいい状態で保管されており、所蔵していた方は大切に保存していたようです。

本作品中の印章は白文朱方印「寺崎廣業」と朱文白方印「秋水共長天一色」ですが、この累印は長い間、寺崎廣業の作品には押印されています。とくに白文朱方印「寺崎廣業」は単独でも多くの作品に押印されています。
*印章の朱文白方印「秋水共長天一色」は真作と思われる作品でも若干印影の違う印章が見受けられます。偽印ということではなさそうで、彫り直している可能性があるのかもしれませんね。
**この作品の印は初期の作なので同時期(初期)の作品と比較しております。

上記写真の資料は明治25年、寺崎廣業が27歳の時の作ですので、すでに本作品と同一印章が押印されていますが、落款からは明治30年前後の作と推定されます。

ところで「菊慈童」を描いた著名な作品はむろん菱田春草の作品ですね。
菱田春草の「菊慈童」:この伝承に画題をとり、深山幽谷の湖辺に、菊を手にして佇む少年の姿を描いています。紅葉に満ちた森林は多様な色合いをみせ、人も通わぬ山中を思わせます。また波も見せずにたたずむ湖面は、この場の静けさを感じさせます。俗世と隔絶した山中に独り流され、霊薬を得て永く留まった幽遠なる仙境の趣を、巧みにあらわした名作ですね。

菱田春草の「菊慈童」は明治33年春に開催された第8回日本絵画協会・第3回日本美術院連合絵画共進会への出品作です。この頃の春草は没線主催の絵画技法を研究していた時期で、輪郭線を用いず(没線)、色面や色の広がりによって絵を構(主彩)しようとする技法であり、日本画の画面に空間性と光の効果とを取り入れようとする運動です。しかし本図においては、空間や光だけではなく、山の深遠さや仙境的な気配をあらわすことにも有効であったことが解ります。
また「菊慈童」を描いた作品は当方の所蔵品ではわずかに1点、下記の岡本大更が描いた作品があります。
菊慈童図 岡本大更筆
絹本着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1980*横550 画サイズ:縦1290*横420

後学として調べてみると寺崎廣業には「菊慈童」を題材とした作品は他に下記の作品があるようです。明治末期か大正初年頃の「三本廣業」時代の作と思われますが、出典等の詳しいことは不明です。
参考作品
菊慈童図 寺崎廣業筆

寺崎廣業の円熟期の作品となりますね。

骨董蒐集は作品を入手するだけではなく、普段から蒐集対象の画家、画題について調べて記録に遺していく作業が必要なようです。作品と出会ってから調べていては入手判断に間に合わなくなりますね。

掛け軸については、このような筋の良い作品を対象として蒐集するのが良いのでしょう。
息子も菊児童になったりしないかな? 飲むお茶は霊水にて・・・・

お菓子、昼食目当てだろうが、嫌とも言わずに付き合うのは感心します。浴衣姿での作法・・・、顔つき、目つきがよく、なんだか様になってきた


お茶のお稽古に使っていただいているのは友人の故平野庫太郎氏の向付です。

工房に行くたびに幾つか平野庫太郎氏から頂いた作品ですが、家内は小服茶碗として使っています。

さて本日の作品は寺崎廣業の初期の作(明治30年頃)と判断していますが、この時期(寺崎廣業が著名となる前)に丹念に描かれた作品は資料としても貴重だろうと思います。

*手前の辰砂の大皿もまた故平野庫太郎氏の作で、平野庫太郎氏から預かっていてほしいと言われた作品です。
菊慈童図 寺崎廣業筆 明治30年(1899年)頃
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 合箱二重箱
全体サイズ:縦2330*横660 画サイズ:縦1320*横500


菊慈童とは周の穆王 (ぼくおう) に愛された侍童 (じどう)のことです 。罪を犯して南陽郡酈県 (れきけん) に流され、その地で菊の露を飲んで不老不死の仙人になったという逸話が題材です。その舞台は山の麓から霊水が湧き出る源流のようです。

謡曲「枕慈童 (まくらじどう) 」については下記に記載のとおりです。
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謡曲「枕慈童 (まくらじどう) 」:観世流の演目「菊慈童」、他流では「枕慈童(まくらじどう)」と呼ばれています。なお、観世流にある「枕慈童」は、また別の類似曲になります。
あらすじは下記のとおりです。

中国、魏の文帝の治世に、酈縣山(れっけんざん/てっけんざん)の麓から霊水が湧き出たため、その源流を探るべく、勅使一行が派遣されました。勅使は山中に一軒の庵を見つけます。周辺を散策して様子を窺っていると、庵から、一人の風変わりな少年が現れました。勅使が怪しんで、名を尋ねると、少年は、自分は慈童という者で、周の穆王に仕えたと教えます。周の穆王と言えば、七百年もの昔の時代です。

勅使がますます怪しんで、化け物だろうと問い詰めると、慈童は、皇帝より直筆の二句(四句)の偈(経典の言葉)が入った枕を賜ったと言い、それを証拠として見せました。勅使もその有難さに感銘を受け、二人でその言葉を唱え味わうのでした。
慈童は、自分が二句(四句)の偈を菊の葉に写したところ、そこに結ぶ露が不老不死の霊水となり、それを飲み続けたから七百歳にもなったのだと語り、喜びの楽を舞います。慈童は、その露の滴りが谷に淵を作り、霊水が湧いていると述べ、勅使らとともに霊水を酒として酌み交わします。そして帝に長寿を捧げ、末永い繁栄を祈念して、慈童は山中の仙家に帰っていきました。

能では、魏の文帝の勅使が、人跡未踏の深い山中で少年姿の慈童に出会う幻想的な情景の中で物語が進行します。この謡曲は小品ではありますが、心の洗われるような、めでたく清涼な趣のある曲とされ、観る者は一時、憂き世を離れ、夢のような異郷世界に遊ぶ心地を得られる演目となっています。
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「菊慈童図」は菊を題材としていて、9月の重陽の節句に際してよく飾られる題材の掛け軸です。

寺崎廣業の作風としては違和感がある方がおられるかもしれませんが、当方では間違いなく寺崎廣業の初期の作品と判断しています。

当方でも当初、本作品については贋作の可能性を疑いましたが、今では真作と判断しています。

共箱ではありませんが、二重箱に収められていて表具はかなりいいもので誂えられています。


非常にいい状態で保管されており、所蔵していた方は大切に保存していたようです。

本作品中の印章は白文朱方印「寺崎廣業」と朱文白方印「秋水共長天一色」ですが、この累印は長い間、寺崎廣業の作品には押印されています。とくに白文朱方印「寺崎廣業」は単独でも多くの作品に押印されています。
*印章の朱文白方印「秋水共長天一色」は真作と思われる作品でも若干印影の違う印章が見受けられます。偽印ということではなさそうで、彫り直している可能性があるのかもしれませんね。
**この作品の印は初期の作なので同時期(初期)の作品と比較しております。


上記写真の資料は明治25年、寺崎廣業が27歳の時の作ですので、すでに本作品と同一印章が押印されていますが、落款からは明治30年前後の作と推定されます。


ところで「菊慈童」を描いた著名な作品はむろん菱田春草の作品ですね。
菱田春草の「菊慈童」:この伝承に画題をとり、深山幽谷の湖辺に、菊を手にして佇む少年の姿を描いています。紅葉に満ちた森林は多様な色合いをみせ、人も通わぬ山中を思わせます。また波も見せずにたたずむ湖面は、この場の静けさを感じさせます。俗世と隔絶した山中に独り流され、霊薬を得て永く留まった幽遠なる仙境の趣を、巧みにあらわした名作ですね。

菱田春草の「菊慈童」は明治33年春に開催された第8回日本絵画協会・第3回日本美術院連合絵画共進会への出品作です。この頃の春草は没線主催の絵画技法を研究していた時期で、輪郭線を用いず(没線)、色面や色の広がりによって絵を構(主彩)しようとする技法であり、日本画の画面に空間性と光の効果とを取り入れようとする運動です。しかし本図においては、空間や光だけではなく、山の深遠さや仙境的な気配をあらわすことにも有効であったことが解ります。
また「菊慈童」を描いた作品は当方の所蔵品ではわずかに1点、下記の岡本大更が描いた作品があります。
菊慈童図 岡本大更筆
絹本着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1980*横550 画サイズ:縦1290*横420

後学として調べてみると寺崎廣業には「菊慈童」を題材とした作品は他に下記の作品があるようです。明治末期か大正初年頃の「三本廣業」時代の作と思われますが、出典等の詳しいことは不明です。
参考作品
菊慈童図 寺崎廣業筆

寺崎廣業の円熟期の作品となりますね。

骨董蒐集は作品を入手するだけではなく、普段から蒐集対象の画家、画題について調べて記録に遺していく作業が必要なようです。作品と出会ってから調べていては入手判断に間に合わなくなりますね。

掛け軸については、このような筋の良い作品を対象として蒐集するのが良いのでしょう。
息子も菊児童になったりしないかな? 飲むお茶は霊水にて・・・・
