一時期に比べたら古伊万里の値段は暴落に近いように感じます。それ中でもとくに高値であった藍九谷、初期伊万里、柿右衛門手の作品にはそれほどの値段がつかなくなったようです。これはひとつに模作、中国製の贋作などが横行したことと、当然一時期のような骨董商が煽った人気が失せてきたことにあるようです。さらにはネットオークションで溢れるがごとくの数が市場に出てきたことからでしょう。
贋作考? 染錦柿右衛門 松下人物文九寸皿
高台内渦福銘 誂箱
口径268*高台径170*高さ55
本作品は古伊万里? 柿右衛門手? 一応は柿右衛門手のようなデザインですが、柿右衛門手や古伊万里の中国産の贋作が横行しており、ここでは中国産の贋作の特徴について下記の資料による記述を引用します。
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中国産の贋作に多い特徴は・・
「八角皿(直径約20.5cm/高さ約3cm)」
「 S字型のしのぎ(線状の陽刻)あり)」
「十角皿(直径約22cm/高さ約3cm しのぎあり)」
「ザラザラした感じの口紅」
「造りの甘い柿右衛門(角がピシッとしていない)」
「柿右衛門のどぎつい黄色」
「黒の輪郭線をわざと途切れとぎれに描いている(本物は擦れて消えている)」
「黒の輪郭線が全く消えていないのも、更に不自然」
「高台畳付きが茶色くて汚い。(中国製贋物は顕著)」
「台形状の高台削り」
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これだけの記述ですと、詳しくない方はなにを記述しているか分かりませんが、詳しい方は大体理解できるはずです。
本作品が上記の記述を参考にして、とくにこれがダメと該当する項目はなさそうですが、見分けやすいものとプロでも見分けがつかない作品とがあるようです。
本作品は高台内には柿右衛門手の常道のような渦福の銘があります。一見して強いてあげるなら「裏面の釉薬の掛かりが均一でスプレーのよるものの疑い。」でしょうか?
真贋こもごもですが、本作品は大正期の色絵と同じで普段使いにはちょっと贅沢な作品で、外側の唐草を含めて全体に手書きで丁寧に描かれています。
この作品は真作なら1700年前後(1690年~1700年頃)の「色絵松下人物文九寸皿」となるのでしょう。見込み周りは染付で下絵付けとあり、周囲と見込みの絵付けは上絵付けで牡丹と柘榴?文などでその下絵付けと上絵付けの対比が妙となっています。
柿右衛門といえば濁手であるか否かが真贋判定のポイントのように言われますが、実際に江戸期の柿右衛門作品の大半は一般的な釉調で、濁手素地のものは非常に数が少ないです。おそらく柿右衛門窯の技術をもってしても、相当に難しく歩留まりの悪いものだったと考えられ、ごく限られた高級品にのみ用いられた特殊な技法であったのではないかと思います。柿右衛門手のさらなる特徴は青と緑の上絵付けの色調にあります。
黄色と見込みの緑がちょっときつい発色かな?
さて本作品で調べることは「渦福」の銘です。この銘は柿右衛門独自のものではありません。下記の記事を引用します。
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角福銘は角形の枠取りの中に「福」字の銘が入った品です。この点は角福印に同じですが角福銘の場合は二重線の角枠のことが多いです。中国磁器の影響により1630年代ごろから有田の作品に現れ始めました。吉祥を意味する銘款の一つで、とくに窯場や作者を示すものではなく、肥前の各窯場で自由に用いられてきました。初期のものは篆書体の「福」字で、印のサイズは一般的に小さいものが中心です。1650年代になると銘款は大きいものが増え、一重の枠取りもみられるようになりました。
*下記の資料は柴田コレクションの図集からのもので、高台内の銘の写真ですが、ほんの一部の例にすぎません。
1670年代から80年代になると草書体になり、旁の田の字が渦を巻く「渦福銘」という銘が出現しました。角福銘は柿右衛門窯から多く出土しており、伝世品も上手のものが多いことが特徴です。このため酒井田柿右衛門の銘款と考えられる風潮がありますが、実際は肥前のさまざまな窯でこの銘款が用いられています。渦福の描き方も丁寧なものから粗雑なものまであり、作品自体の文様の表現や成形などの技術にも各窯ごとに差がみられるようになりました。また18世紀になると渦福は除々に粗略な描き方に変化し、18世紀後半にはほとんど姿を消します。1800年ごろになると「福」字の田の部分が×印の書体が現れました。
明治18年(1885年)には、渦福の角福銘を11代酒井田柿右衛門が商標登録し、以後、渦福銘のあるものは柿右衛門窯の作品を意味するようになります。しかし、帝国窯業の小畑秀吉の出資を受けて大正8年(1919)に設立した柿右衛門焼合資会社を、12代柿右衛門が昭和3年(1928)に離れたことから以後、角福銘は柿右衛門家では使えなくなり、「柿右衛門作」の銘を用いました。このことから昭和3年から昭和44年までの柿右衛門は、合資会社による角福銘の作品と、柿右衛門窯による「柿右衛門作」銘の作品とを平行して作っていた時期であったと判ります。同年に角福銘は合資会社から柿右衛門窯へ返還されましたが、その後使われることはなくなったため、現存する角福銘の器はどこで作られた器かを特定することは難しくなっています。
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年代的には符号します。この期に柿右衛門手は輸出され、画面は絵付けにおいて十二分に余白をとった画面となっていきます。
やはり絵柄が甘い・・とくに葉の描き方、近代の模作としておくのが正解の作品かもしれませんが、元来柿右衛門手はこのようなものかもしれません。
そもそも柿右衛門偏重の趣向には当方は賛同していません。技術レベル、芸術性と値段のバランスがとれていない気がします。異論のある方は多いと思いますが、これは魯山人も近代柿右衛門も同じだと思います。
贋作考? 染錦柿右衛門 松下人物文九寸皿
高台内渦福銘 誂箱
口径268*高台径170*高さ55
本作品は古伊万里? 柿右衛門手? 一応は柿右衛門手のようなデザインですが、柿右衛門手や古伊万里の中国産の贋作が横行しており、ここでは中国産の贋作の特徴について下記の資料による記述を引用します。
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中国産の贋作に多い特徴は・・
「八角皿(直径約20.5cm/高さ約3cm)」
「 S字型のしのぎ(線状の陽刻)あり)」
「十角皿(直径約22cm/高さ約3cm しのぎあり)」
「ザラザラした感じの口紅」
「造りの甘い柿右衛門(角がピシッとしていない)」
「柿右衛門のどぎつい黄色」
「黒の輪郭線をわざと途切れとぎれに描いている(本物は擦れて消えている)」
「黒の輪郭線が全く消えていないのも、更に不自然」
「高台畳付きが茶色くて汚い。(中国製贋物は顕著)」
「台形状の高台削り」
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これだけの記述ですと、詳しくない方はなにを記述しているか分かりませんが、詳しい方は大体理解できるはずです。
本作品が上記の記述を参考にして、とくにこれがダメと該当する項目はなさそうですが、見分けやすいものとプロでも見分けがつかない作品とがあるようです。
本作品は高台内には柿右衛門手の常道のような渦福の銘があります。一見して強いてあげるなら「裏面の釉薬の掛かりが均一でスプレーのよるものの疑い。」でしょうか?
真贋こもごもですが、本作品は大正期の色絵と同じで普段使いにはちょっと贅沢な作品で、外側の唐草を含めて全体に手書きで丁寧に描かれています。
この作品は真作なら1700年前後(1690年~1700年頃)の「色絵松下人物文九寸皿」となるのでしょう。見込み周りは染付で下絵付けとあり、周囲と見込みの絵付けは上絵付けで牡丹と柘榴?文などでその下絵付けと上絵付けの対比が妙となっています。
柿右衛門といえば濁手であるか否かが真贋判定のポイントのように言われますが、実際に江戸期の柿右衛門作品の大半は一般的な釉調で、濁手素地のものは非常に数が少ないです。おそらく柿右衛門窯の技術をもってしても、相当に難しく歩留まりの悪いものだったと考えられ、ごく限られた高級品にのみ用いられた特殊な技法であったのではないかと思います。柿右衛門手のさらなる特徴は青と緑の上絵付けの色調にあります。
黄色と見込みの緑がちょっときつい発色かな?
さて本作品で調べることは「渦福」の銘です。この銘は柿右衛門独自のものではありません。下記の記事を引用します。
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角福銘は角形の枠取りの中に「福」字の銘が入った品です。この点は角福印に同じですが角福銘の場合は二重線の角枠のことが多いです。中国磁器の影響により1630年代ごろから有田の作品に現れ始めました。吉祥を意味する銘款の一つで、とくに窯場や作者を示すものではなく、肥前の各窯場で自由に用いられてきました。初期のものは篆書体の「福」字で、印のサイズは一般的に小さいものが中心です。1650年代になると銘款は大きいものが増え、一重の枠取りもみられるようになりました。
*下記の資料は柴田コレクションの図集からのもので、高台内の銘の写真ですが、ほんの一部の例にすぎません。
1670年代から80年代になると草書体になり、旁の田の字が渦を巻く「渦福銘」という銘が出現しました。角福銘は柿右衛門窯から多く出土しており、伝世品も上手のものが多いことが特徴です。このため酒井田柿右衛門の銘款と考えられる風潮がありますが、実際は肥前のさまざまな窯でこの銘款が用いられています。渦福の描き方も丁寧なものから粗雑なものまであり、作品自体の文様の表現や成形などの技術にも各窯ごとに差がみられるようになりました。また18世紀になると渦福は除々に粗略な描き方に変化し、18世紀後半にはほとんど姿を消します。1800年ごろになると「福」字の田の部分が×印の書体が現れました。
明治18年(1885年)には、渦福の角福銘を11代酒井田柿右衛門が商標登録し、以後、渦福銘のあるものは柿右衛門窯の作品を意味するようになります。しかし、帝国窯業の小畑秀吉の出資を受けて大正8年(1919)に設立した柿右衛門焼合資会社を、12代柿右衛門が昭和3年(1928)に離れたことから以後、角福銘は柿右衛門家では使えなくなり、「柿右衛門作」の銘を用いました。このことから昭和3年から昭和44年までの柿右衛門は、合資会社による角福銘の作品と、柿右衛門窯による「柿右衛門作」銘の作品とを平行して作っていた時期であったと判ります。同年に角福銘は合資会社から柿右衛門窯へ返還されましたが、その後使われることはなくなったため、現存する角福銘の器はどこで作られた器かを特定することは難しくなっています。
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年代的には符号します。この期に柿右衛門手は輸出され、画面は絵付けにおいて十二分に余白をとった画面となっていきます。
やはり絵柄が甘い・・とくに葉の描き方、近代の模作としておくのが正解の作品かもしれませんが、元来柿右衛門手はこのようなものかもしれません。
そもそも柿右衛門偏重の趣向には当方は賛同していません。技術レベル、芸術性と値段のバランスがとれていない気がします。異論のある方は多いと思いますが、これは魯山人も近代柿右衛門も同じだと思います。