夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

樓臺朝陽図 野田九浦筆 その1(1/4)

2018-05-08 00:01:00 | 掛け軸
五月の連休は郷里に帰省し、のんびりと幾つかの温泉に行ったり、美味しいものを食べたり、知人らと旧交を深めたり、むろん骨董も愉しんできました。その内容についてはまた追々ブログにて報告させていただきますが、アッという間の一週間でした。息子も「お父さんの田舎ってすごいね。」だと言っていますが、どういう意味だろう?

さて本日の作品は両親から譲り受けた作品のひとつです。本作品、「野田九甫の作品」はおそらく祖父が購入したもののひとつでしょう。寺崎廣業の弟子ということもあり、郷里とは無関係ではない画家です。

樓臺朝陽図 野田九浦筆 その1(1/4)
絹本着色軸装 軸先 共箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横



NHKの日曜美術館にて、(ノーベル賞の)大村智さんが初めて買った絵が野田九浦の「芭蕉」だという内容で野田九甫の掛軸の作品が紹介されていました。このことで少しは野田九甫の名が知れたかもしれませんが、それでも現在ではとてもマイナーな画家と言っても過言ではないでしょう。祖父が買い求めた頃は著名な画家の一人であったと思います。



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野田九浦:明治12年12月22日、東京下谷生れ。本名道三。「九甫」とも表記。祖父は漢文学者の野田笛浦。弟に脚本家の野田高梧がいる。

 

4歳から父が税関長をつとめた函館で過ごし、函館商業学校で学ぶ。明治28年(1895年)に寺崎広業と共に上京し師事、その画塾に学び、明治29年(1896年)に東京美術学校日本画家選科に入学するが、明治31年(1898年)美術学校騒動(岡倉天心排斥運動)により師とともに退学、創立された日本美術院の研究生となる。また町田曲江と白馬会研究所で黒田清輝に洋画を学び、渡欧をめざしてフランス語を習い、正岡子規について俳句を学ぶ。

明治40年大阪朝日新聞社に入社(大正6年退社)、夏目漱石の小説「坑夫」の挿絵を制作する。1907年第1回文展で「辻説法」が二等賞受賞など文展・帝展などで受賞多数。1912年に北野恒富と大正美術会を結成。1917年第11回文展で特選。1947年に帝国芸術院会員となり、日展に出展。画塾煌土社を設立。金沢美術工芸大学教授。狩野探幽の研究でも知られた。著書に『狩野探幽』がある。煌土社創設、日本画院同人、帝国芸術院会員、日展運営会常務理事、(社)日展顧問、金沢市立美術工芸学校教授(のち名誉教授)。

下記の右写真の作品は「天草四郎」

 

歴史人物画に秀作を残しています。

晩年は東京都武蔵野市吉祥寺に暮らし、屋敷跡が市のコミュニティセンターとなっており「九浦の家」と名付けられている。作品および遺品は武蔵野市に寄贈され、武蔵野市立吉祥寺美術館に収蔵されているほか、スケッチブックなどはコミュニティセンターでも展示されている。昭和46年11月2日、東京武蔵野で没。享年91。

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共箱の中には祖父が興し、父も務めていた会社の封筒があります。祖父から父に、父から母に、そして小生に受け継がれてきた作品です。

 

このような作品は男の隠れ家に多々ありますが、骨董蒐集も最初は画家の名前も知らず、資料を調べるところから始まりました。ようやく今になって一通りの整理ができるまで知識が得られたかと思います。



無から調べて整理するという苦労から、所蔵作品に関しての資料を将来に向けて整理しておくことの必要性を人一倍、小生は感じているのかもしれません。

さて本日から全国行脚です。手始めに早朝から四国、大阪の日帰りコースです。


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