
夕食の後は食器洗い・・。

さて本日の作品は「氏素性の解らぬ作品」と題していますが、贋作と判断している作品です。クレームの付かぬように作者不明としながら、共シール、鑑定シールなどを貼り付け真作を装いながらの販売やネットオークション出品が横行しているようです。なおネットオークションでは複数のIDから出品されているようですので益々要注意ですね。
本日はこのような作品を入手してしまうのを反省しながら、勉強代金として回収すべく調べてみましたので、その内容を投稿します。
氏素性の解らぬ作品 旗袍の姑娘 伝?梅原龍三郎画 1943年(昭和18年)作
油彩額装 左下サイン 共シール 中川一政鑑定シール タトウ+黄袋
画サイズF10号:横457*縦531 全体サイズ:横588*縦664

まずは題名の「旗袍の姑娘」ですが、「チイパオのクーニャン」と呼ぶようです。意味は下記のとおりです。
旗袍:チャイナドレス、旗袍(チイパオ)また旗装・旗服・満洲服は、一般的に詰襟で横に深いスリットが入った、女性が着るボディコンシャスなワンピース、またはその意匠を反映した服装を指す。日本では「中国を代表する民族衣装」と認識されるが、厳密に言えば中国人の主体である漢民族の民族服では無く、「満洲人の民族衣装に西洋の要素を融合した服」である。

姑娘:(読み)クーニャン 未婚の若い女性をいう中国語。
梅原龍三郎は、1939年から1943年の5年間に北京を6回訪れており、2、3ヶ月のこともあれば、半年以上ということもあったようです。この6回とも北京飯店に泊まり、509号室がお気に入りだったそうです。そうなった経緯は、1939年(昭和14)、梅原は第2回満州国美術展の審査に招かれて満州(現、中国東北部)へ渡り、帰途北京を訪れた時から始まります。その景観に驚き、制作意欲をかきたてられた彼は、「雲中天壇」(1939年、京都国立近代美術館)、代表作となった「紫禁城」などの風景画や旅の途中で出会った人々の姿を精力的に描いていきます。

北京での梅原は、午前は宿泊先の窓から見える風景を描き、午後になると若い女性を部屋に呼び、人物画の制作に没頭したという。彼はとくにこの姑娘と呼ばれる若い中国人女性に魅力を感じていたようで、紫禁城などを描いた風景画とともに姑娘図の連作も北京における制作の柱となっています。

北京での制作には、油絵具のほかに岩絵具も併用し、その質感と色合いを楽しんだそうです。姑娘図には、東洋的な伝統の美に加え、モダンなファッションを取り入れて新しい女性像を探究したものも多い。「滞在先に呼ばれたモデルたちは、髪にパーマネントをあて、流行の洋服を身につける。ソファーに腰掛け、ポーズを取る。」いった具合ですが、女性たちの緊張したようにこわばる姿が、一期一会の旅先での出会いを垣間見せています。

北京の美しい風景と美しい娘たちに魅せられた梅原は、この後前述のように何度も北京に滞在し、数多くの作品を制作しました。山口淑子さんによりますと、梅原が北京飯店に滞在していた時、姑娘画のモデルとなったと日経新聞の「私の履歴書」また自伝「李香蘭・私の半生」でも述べていられます。作品は20号、現在は山口淑子さんの手元にあるそうです。ここに掲載した「李香蘭」はその実物で千葉県の菱川師宣記念館で展示された時のものです。

作品中のサイン、キャンパス裏の書付は下記のとおりです。字体と印章はまさしく真作・・・・???。

額の裏のシールは下記のとおりです。ここまでくると真作と思いたくなりますね。キャンパスの釘も古めかしい錆のあるものを使用しています。

さてこの作品は「李香蘭」を意識して描いた作品には相違ないでしょう。

李香蘭はご存知のように日本名では山口淑子このとです。

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山口淑子:(やまぐち よしこ、1920年(大正9年)2月12日 - 2014年(平成26年)9月7日)は、日本の歌手、女優、政治家。戸籍名は大鷹淑子(旧姓:山口)。 翊教女子中学卒。
さまざまな名前で活動し、戦前の中国(中華民国)と満州国・日本・戦後の香港で李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン)、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国ではシャーリー・ヤマグチ (Shirley Yamaguchi) の名で映画、歌などに活躍した。流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていた。
日本の敗戦を上海で迎えた彼女は、中国人として祖国を裏切った漢奸の容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。
帰国後は、旧姓(当時の本名)・山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をしたが、1958年(昭和33年)に結婚のため芸能界を退いた。
ニューヨークで彫刻家イサム・ノグチと知り合い、1951年に結婚している。鎌倉の北大路魯山人の邸宅敷地内にアトリエと住まいを構えたが、1955年(昭和30年)に離婚する。
そして1969年(昭和44年)にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者としてマスメディア界に復帰、1974年(昭和49年)3月まで務めた。1974年(昭和49年)、田中角栄首相の要請で自由民主党から第10回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し初当選し、1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間、参議院議員3期務めた。
2006年に日本チャップリン協会(大野裕之会長)の名誉顧問に就いた。 2014年9月7日、心不全のため、東京都千代田区一番町の自宅で死去した。94歳だった。叙正四位。
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なんとも波乱万丈の人生ですが、梅原龍三郎と関連する女優では高峰秀子もいますね。
本作品はまず画風が違うので、出来の悪い贋作であり曲がりなりにも梅原龍三郎の作とはできませんが、負け惜しみとしては関わった人の歴史を振り返るのにはいい題材ですね。
ただもっともらしいシール、サインなどから悪意のある贋作であろうと思われます。知識を得たならすぐに破棄すべき作品でしょうが、これはこれで売る目的ではない使い道(盗難にあっても大丈夫?)がありますが、ここまで出来が悪いとなんとも飾るのも厭らしい・・

さて本日の作品は「氏素性の解らぬ作品」と題していますが、贋作と判断している作品です。クレームの付かぬように作者不明としながら、共シール、鑑定シールなどを貼り付け真作を装いながらの販売やネットオークション出品が横行しているようです。なおネットオークションでは複数のIDから出品されているようですので益々要注意ですね。
本日はこのような作品を入手してしまうのを反省しながら、勉強代金として回収すべく調べてみましたので、その内容を投稿します。
氏素性の解らぬ作品 旗袍の姑娘 伝?梅原龍三郎画 1943年(昭和18年)作
油彩額装 左下サイン 共シール 中川一政鑑定シール タトウ+黄袋
画サイズF10号:横457*縦531 全体サイズ:横588*縦664

まずは題名の「旗袍の姑娘」ですが、「チイパオのクーニャン」と呼ぶようです。意味は下記のとおりです。
旗袍:チャイナドレス、旗袍(チイパオ)また旗装・旗服・満洲服は、一般的に詰襟で横に深いスリットが入った、女性が着るボディコンシャスなワンピース、またはその意匠を反映した服装を指す。日本では「中国を代表する民族衣装」と認識されるが、厳密に言えば中国人の主体である漢民族の民族服では無く、「満洲人の民族衣装に西洋の要素を融合した服」である。

姑娘:(読み)クーニャン 未婚の若い女性をいう中国語。
梅原龍三郎は、1939年から1943年の5年間に北京を6回訪れており、2、3ヶ月のこともあれば、半年以上ということもあったようです。この6回とも北京飯店に泊まり、509号室がお気に入りだったそうです。そうなった経緯は、1939年(昭和14)、梅原は第2回満州国美術展の審査に招かれて満州(現、中国東北部)へ渡り、帰途北京を訪れた時から始まります。その景観に驚き、制作意欲をかきたてられた彼は、「雲中天壇」(1939年、京都国立近代美術館)、代表作となった「紫禁城」などの風景画や旅の途中で出会った人々の姿を精力的に描いていきます。

北京での梅原は、午前は宿泊先の窓から見える風景を描き、午後になると若い女性を部屋に呼び、人物画の制作に没頭したという。彼はとくにこの姑娘と呼ばれる若い中国人女性に魅力を感じていたようで、紫禁城などを描いた風景画とともに姑娘図の連作も北京における制作の柱となっています。

北京での制作には、油絵具のほかに岩絵具も併用し、その質感と色合いを楽しんだそうです。姑娘図には、東洋的な伝統の美に加え、モダンなファッションを取り入れて新しい女性像を探究したものも多い。「滞在先に呼ばれたモデルたちは、髪にパーマネントをあて、流行の洋服を身につける。ソファーに腰掛け、ポーズを取る。」いった具合ですが、女性たちの緊張したようにこわばる姿が、一期一会の旅先での出会いを垣間見せています。

北京の美しい風景と美しい娘たちに魅せられた梅原は、この後前述のように何度も北京に滞在し、数多くの作品を制作しました。山口淑子さんによりますと、梅原が北京飯店に滞在していた時、姑娘画のモデルとなったと日経新聞の「私の履歴書」また自伝「李香蘭・私の半生」でも述べていられます。作品は20号、現在は山口淑子さんの手元にあるそうです。ここに掲載した「李香蘭」はその実物で千葉県の菱川師宣記念館で展示された時のものです。


作品中のサイン、キャンパス裏の書付は下記のとおりです。字体と印章はまさしく真作・・・・???。


額の裏のシールは下記のとおりです。ここまでくると真作と思いたくなりますね。キャンパスの釘も古めかしい錆のあるものを使用しています。


さてこの作品は「李香蘭」を意識して描いた作品には相違ないでしょう。

李香蘭はご存知のように日本名では山口淑子このとです。

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山口淑子:(やまぐち よしこ、1920年(大正9年)2月12日 - 2014年(平成26年)9月7日)は、日本の歌手、女優、政治家。戸籍名は大鷹淑子(旧姓:山口)。 翊教女子中学卒。
さまざまな名前で活動し、戦前の中国(中華民国)と満州国・日本・戦後の香港で李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン)、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国ではシャーリー・ヤマグチ (Shirley Yamaguchi) の名で映画、歌などに活躍した。流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていた。
日本の敗戦を上海で迎えた彼女は、中国人として祖国を裏切った漢奸の容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。
帰国後は、旧姓(当時の本名)・山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をしたが、1958年(昭和33年)に結婚のため芸能界を退いた。
ニューヨークで彫刻家イサム・ノグチと知り合い、1951年に結婚している。鎌倉の北大路魯山人の邸宅敷地内にアトリエと住まいを構えたが、1955年(昭和30年)に離婚する。
そして1969年(昭和44年)にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者としてマスメディア界に復帰、1974年(昭和49年)3月まで務めた。1974年(昭和49年)、田中角栄首相の要請で自由民主党から第10回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し初当選し、1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間、参議院議員3期務めた。
2006年に日本チャップリン協会(大野裕之会長)の名誉顧問に就いた。 2014年9月7日、心不全のため、東京都千代田区一番町の自宅で死去した。94歳だった。叙正四位。
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なんとも波乱万丈の人生ですが、梅原龍三郎と関連する女優では高峰秀子もいますね。
本作品はまず画風が違うので、出来の悪い贋作であり曲がりなりにも梅原龍三郎の作とはできませんが、負け惜しみとしては関わった人の歴史を振り返るのにはいい題材ですね。
ただもっともらしいシール、サインなどから悪意のある贋作であろうと思われます。知識を得たならすぐに破棄すべき作品でしょうが、これはこれで売る目的ではない使い道(盗難にあっても大丈夫?)がありますが、ここまで出来が悪いとなんとも飾るのも厭らしい・・
