夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

鯉図 月岡雪斎筆

2012-09-06 05:32:26 | 掛け軸
先日、小説を読んでいたら「絵を購入するには投資である。」と著されていました。違和感を憶えました。絵を購入するのが投資だとすると私にとってはこれほど利益の見込めない投資はありません。知己や知識を得るための投資というのなら理解できますが、絵を購入して実質的な利益を得た御仁を見たことがありません。

さて本日は古い絵で江戸後期の浮世絵師による肉筆画です。
どうも鯉の絵というと食指が動きます。子供の頃から鯉に憧れ、とうとう本家の池の鯉を釣り上げてしまったほどですので、鯉の絵のちょっといいものには手を出さずにはおれないようです。


以前にも説明しましたように月岡芳年と月岡雪斉は養子によって画系が繋がっています。絵師の位である法眼などを叙されていることから、かなり家系存続にはこだわりがあったものと推察されます。

鯉図 月岡雪斎筆
絹本着色軸先鹿骨 合箱入 
全体サイズ:横659*縦1260 画サイズ:横539*縦320



        
本作品は他の所蔵作品「唐美人図」の落款と印章がほぼ同一ということから同じ頃の制作と推察されます。

 


美人画が高く評価され京都府立総合資料館蔵を編集した「肉筆浮世絵Ⅱ 上方の美人画」にも何点か掲載されています。本作品は美人画ではありませんが、鯉が画面いっぱいに描かれた佳品といえます。



決して月岡雪斉という画家は絵はうまいとは言いがたいところがあります。絵が硬いという表現がぴったりする画家です。もっと奔放な絵を描くのが本来の肉筆浮世絵師の真骨頂なのですが、位、地位にこだわった絵師の限界を見るような気がします。



本作品のように200年以上経過している作品で保存状態の良い作品は珍しくなってきました。紙や絹が硬くなって割れ、折れがひどかったり、シミがたくさん発生したりしています。このようなすこしでも保存状態のよいものは初心な状態で保存しておきたいものです。

説明資料

月岡雪斎:月岡雪鼎の長男。大坂の人。名は秀栄。字は太素。魏江斎と号す。父及び狩野派の吉村周山に絵を学んだ。天明(1781年-1789年)末から天保(1830年-1844年)の頃に活躍し、人物画、花鳥画を得意としていたが、特に肉筆美人画にその手腕を発揮し、雪斎による美人画は父・雪鼎より練達した筆致で描かれ、注目すべき作品が多い。

天明7年(1787年)頃には父と『和漢名家画繍』を合作している。雪斎は法橋を経て法眼に叙せられている。また、後年には江戸に移ったともいわれる。天保10年(1839年)2月1日死去した。

雪斎の養子となったのが月岡芳年である。門人に弟の月岡雪渓がいる。

参考資料:絵師の位

僧位(そうい)に倣ったものと思われます。僧位とは日本において僧侶に対し与えられた位階のことです。以前から僧位らしいものはりましたが760年(天平宝字4年)大法師位のもとに伝法位と修行位がおかれ伝灯位と修行位とにそれぞれ法師位、満位、住位、入位の4種の位階が置かれた。

864年(貞観6年)には僧綱に対応する僧位として僧正に法印大和尚位(略して法印ともいう)、僧都に法眼和上位(略して法眼ともいう)、律師に法橋上人位(略して法橋ともいう)が与えられた。

平安時代後期以降は定朝が叙されたのを皮切りに、仏師や絵仏師、連歌師などにも与えられるようになった。近世になると絵師が任命される例が増え、武士の入道、儒者、医師などにも及んだ。

絵師の中では、御用絵師だけでなく民間絵師も叙任されたが、その手続きは面倒であった。門跡寺院を窓口としてしかるべき旗本などの名義を借り師匠などに保証人を頼んだ上で町奉行に願書を提出し許可を得た後、寺院に再度申請を差し出し評定にかけられ武家伝奏を介して叙任の宣旨が下された。




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