
昨日は上野の博物館に北京故宮の展示品を観にいきました。
内容は落胆の一言です。清明上河図はいいものですが、3時間以上の並びは耐えられません。他はいいもののありますが、日本国内に比べると陶磁器、青銅器は日本ノコレクションに比して2級品どまりといったところでしょう。
また、展覧会に来るならいま少し常識を勉強してから来いと言いたい輩がやたら多い。
玉をみて「これは石?」とか・・・・。
続けて世田谷のボロ市へ・・。人だらけ・・。骨董品は品薄というよりいいものはないに等しい。
時間ばかり無駄になる・・。三軒茶屋で一休み。これまた行列。時間をとるか、美味しいものをとるかの選択。今ままでは時間をとるのが当たり前。今回は美味しいもの??
行列で寒い外で多くの人が待っているのに、若い女性は意味のない話ばかりで席を立たない。この無神経さはどうなっているのか。親の顔を見てみたいものです。
ともく昨日は、都会では評判を聞くと人がすぐに集結することと、そのために意味のない多くの時間を費やすことを改めて痛感しました。
昇龍 小村大雲筆
紙本水墨淡彩軸装箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横222*縦598

本作品は昔からの題材としてある昇龍の絵であるが、小作ながらよく描けています。本来の着色日本画ではありませんが、きちんとした技量が備わっていることを示しています。

残念ながら共箱ではないが、「豊文」という別号の印章を用いており、贋作などではなく真面目な作品です。

席画程度として描かれたものでしょうが、なかなかいい出来であると思います。

小村大雲という画家は知らない人が多いかも知れませんが、なかなかいい作品を描いています。

さて、本年も米吉さんより干支である「龍吉」さんを頂きました。近日、公開予定です。
小村大雲:明治16年、島根県楯縫郡平田町(現出雲市平田町袋町)の穀物荒物商、小村豊兵衛とカメの長男として生まれる。
明治30年に高等小学校を退校、翌31年両親の許可を得ず単身上京し、橋本雅邦の門や川端玉章の門をたたくが断られ帰郷、親戚会議で親の承認を得、広島で絵の修行をするが、訳
あって脱門し、平田の鰐淵寺にあずけられる。その後京都で修行し明治36年には山元春挙に師事する。
大正元年(1912)島根の加賀浦で題材を得た「釣日和」が第6回文部省美術展覧会で第2科3等賞6席に入賞、以後3年連続入選、5年には「畫舫」が第10回文展で特選、以後も特選、無鑑査となる。8年第1回帝国美術展覧会で「推薦」にあげられ、永久無鑑査となり、以後ほぼ毎年作品を出品し、委員、審査員など歴任する。
昭和10年(1935)明治神宮に壁画「京浜鉄道開業式行幸図」が完成。13年、たまたま京都より平田に帰省中の2月20日、54歳の若さで急逝、平田極楽寺に埋葬される。名は権三郎、字は厳座、子荘と称した。別号は豊文・碧雲湖畔人・赤松子・豊瑞・豊花等有り。京都に出て都路華香に師事したのち、山元春挙の画塾早苗会に入門し画法を学ぶ。文展・帝展で受賞を重ね活躍する。昭和13年2月20日(1938)歿。
内容は落胆の一言です。清明上河図はいいものですが、3時間以上の並びは耐えられません。他はいいもののありますが、日本国内に比べると陶磁器、青銅器は日本ノコレクションに比して2級品どまりといったところでしょう。
また、展覧会に来るならいま少し常識を勉強してから来いと言いたい輩がやたら多い。
玉をみて「これは石?」とか・・・・。
続けて世田谷のボロ市へ・・。人だらけ・・。骨董品は品薄というよりいいものはないに等しい。
時間ばかり無駄になる・・。三軒茶屋で一休み。これまた行列。時間をとるか、美味しいものをとるかの選択。今ままでは時間をとるのが当たり前。今回は美味しいもの??
行列で寒い外で多くの人が待っているのに、若い女性は意味のない話ばかりで席を立たない。この無神経さはどうなっているのか。親の顔を見てみたいものです。
ともく昨日は、都会では評判を聞くと人がすぐに集結することと、そのために意味のない多くの時間を費やすことを改めて痛感しました。
昇龍 小村大雲筆
紙本水墨淡彩軸装箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横222*縦598

本作品は昔からの題材としてある昇龍の絵であるが、小作ながらよく描けています。本来の着色日本画ではありませんが、きちんとした技量が備わっていることを示しています。

残念ながら共箱ではないが、「豊文」という別号の印章を用いており、贋作などではなく真面目な作品です。

席画程度として描かれたものでしょうが、なかなかいい出来であると思います。

小村大雲という画家は知らない人が多いかも知れませんが、なかなかいい作品を描いています。

さて、本年も米吉さんより干支である「龍吉」さんを頂きました。近日、公開予定です。
小村大雲:明治16年、島根県楯縫郡平田町(現出雲市平田町袋町)の穀物荒物商、小村豊兵衛とカメの長男として生まれる。
明治30年に高等小学校を退校、翌31年両親の許可を得ず単身上京し、橋本雅邦の門や川端玉章の門をたたくが断られ帰郷、親戚会議で親の承認を得、広島で絵の修行をするが、訳
あって脱門し、平田の鰐淵寺にあずけられる。その後京都で修行し明治36年には山元春挙に師事する。
大正元年(1912)島根の加賀浦で題材を得た「釣日和」が第6回文部省美術展覧会で第2科3等賞6席に入賞、以後3年連続入選、5年には「畫舫」が第10回文展で特選、以後も特選、無鑑査となる。8年第1回帝国美術展覧会で「推薦」にあげられ、永久無鑑査となり、以後ほぼ毎年作品を出品し、委員、審査員など歴任する。
昭和10年(1935)明治神宮に壁画「京浜鉄道開業式行幸図」が完成。13年、たまたま京都より平田に帰省中の2月20日、54歳の若さで急逝、平田極楽寺に埋葬される。名は権三郎、字は厳座、子荘と称した。別号は豊文・碧雲湖畔人・赤松子・豊瑞・豊花等有り。京都に出て都路華香に師事したのち、山元春挙の画塾早苗会に入門し画法を学ぶ。文展・帝展で受賞を重ね活躍する。昭和13年2月20日(1938)歿。
私が生まれたときはもう死んでいて会ったことないのですが最近母も泣くなり曾おじいさんのことを調べていたらこのブログを見つけました。
嬉しくてついコメントしてしまいました。
小室大雲の作品は残念ながら本作品のみの所有です。機会がありましたら、もっと勉強してみたい画家の一人です。