夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

柳陰山水図 天野方壷筆 その6

2019-07-09 00:01:00 | 掛け軸
富岡鉄斎も一目置いた流浪の画家「天野方壺」、その出来の良い作品はなかなか入手困難です。それでも本日の作品で6作品目となりました。

柳陰山水図 天野方壷筆 その6
絖本水墨淡彩軸装 軸先木製加工 合箱
全体サイズ:縦2011*横561 画サイズ:縦1422*横419



明治13年。天野方壷は1824年生まれであるから57歳の頃に作となります。



賛は下記のように読めますが、意味はちんぷんかんぷん・・。「開先瀑布」という〈宋〉蘇 轍による漢詩を引用しているのでしょう。

山上流泉自作谿 行逢石缺瀉虹霓 定知雲外波瀾濶
飛到峰前本末齊 入海明河驚照曜 倚天長劒失提攜
誰來卧枕莓苔石 一洗塵心萬斛泥           

明治十三年歳在庚辰三月春□□寫於方壷仙史 押印

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蘇轍:(そ てつ、1039年3月17日(宝元2年2月20日) - 1112年10月25日(政和2年10月3日))。中国・北宋の文人で官僚。蘇洵の次子、蘇軾の弟にあたる。字は子由。潁浜遺老と号す。唐宋八大家の一人に数えられる。

眉州眉山(四川省眉山市東坡区)の出身。1057年、19歳の時に兄とともに進士に及第し、商州軍事推官となるが父・蘇洵を首都で養うこととし、兄・蘇軾が任地(鳳翔府)から帰ってきてはじめて大名(河北省大名県)推官となる。神宗の時に三司條例司の属官となったが、王安石の青苗法に反対して河南推官に転出させられ、斉州掌書記をへて著作佐郎となる。いわゆる「烏台の詩案」で兄の蘇軾が罪を得たときに連座して、監筠州塩酒税・知績渓県に落とされる。

哲宗が即位して召されて秘書省校書郎となり、右司諫・起居郎・中書舎人・戸部侍郎と累進し、翰林学士となり権吏部尚書・御史中丞・尚書右丞をへて門下侍郎まで昇進した。しばしば上書直言したが、帝の意にかなわず知汝州(河南省)に左遷される。袁州の知とされたが赴任先に着く前に朝議大夫に落とされ、南京をへて筠州に到る。化州別駕・雷州安置・循州安置(広東省)、徽宗に代が替わっても永州・岳州(湖南省)と地方回りをさせられていたが、大中大夫に復帰させられ、提挙鳳翔上清・太平宮として許州に移った。崇寧年間(1102年-1106年)に官を辞め、許州に室を築き、潁浜遺老と称し交友を絶ち、終日黙座して経史諸子を研究すること十年にして74歳で没する。端明殿学士を追贈され、南宋の淳熙年間に文定と諡される。

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落款と印章の拡大は下記の写真です。



画号としては方壷のほか、盈甫、三津漁者,銭幹、真々,石樵、銭岳、雲眠、白雲外史など多数あり、時々に自分の心境に合った号を付け、楽しんでいたものと思われます。



休みなく全国を旅し画道修行を続けた彼が明治8年52歳になってようやく京都に居を構え定住していた頃です。



京都に定住した後は、四季の草花を栽培しこれを売って生計を営み、売花翁と号していたほか、京都府画学校(現在 京都市立芸術大学)に出仕を命じられたり、内国絵画共進会に出品したりしながらもやはり歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しています。



天野方壷と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを 「画匠」と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。鉄斎といえば「萬巻の書を読み万里の路を行く」を座右の銘として、全国を旅行しましたが、この「万里を行く]ことに関しては方壷が鉄斎を凌駕しているかもしれません。



近年評価されているのか、平成16年に方壷生誕180年に当たり。これに因んで愛媛県美術館において展覧会が開催され作品20点が展示されました。また、平成15年には福島県の桑折町種徳美術館において天野方壷展が開催され、作品13点が公開されています。



「天野方壺」という画家は廃れいく日本画の近代山水画の中で見直すべき画家の一人です。大きな床に飾ってそのおおらかさを愉しんでいます。







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