本日から郷里に帰省のため本ブログの今年の投稿は本日にて終了です。本年中は当方の拙いブログを拝読して頂いた皆さんに感謝申し上げます。来年は1月4日頃から開始予定ですので、来年もよろしくお願い致します。
本日紹介する作品は郷里出身の画家の寺崎廣業が若い頃に描いた作品で、明治26年に描かれた作品のようです。共箱とされる箱書は20年後で、大正2年に記されたものであり、資料的にも非常に貴重な作品となります。
月空殿 寺崎廣業筆 明治26年
絹本着色額装 大正2年冬12月箱書共箱二重蓋箱誂
全体サイズ:縦2025*横610 画サイズ:縦1075*横405
放浪の画家といわれた寺崎広業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれており、また寺崎家も藩の重臣でした。廃藩置県の後、父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられています。
幼児から絵を好みすぐれていたということでしたが家が貧しく、明治10年(1877年)には太平学校変則中学科(現秋田県立秋田高等学校)に入学するも、学費が乏しく一年足らずで退学となります。10代半ば独りで秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたそうです。さらに秋田医学校にも入学しますが学費が続かなかったとされます。
結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印しましたが、鹿角に至った時に生活のために戸村郡長の配慮で登記所雇書記になっています。生活はようやく安定しましたが、絵への心は少しも弱まらなかったようです。寺崎廣業には2人の異父弟佐藤信郎と信庸とがいましたが、東京小石川で薬屋を営んでいた信庸のすすめで上京します。1888年(明治21年)春23歳のことです。
上京すると平福穂庵、ついで菅原白龍の門を叩きます。寺崎廣業は4か月(他の資料では10か月ほど上野黒門町の平福穂庵宅に居たとされています。)でまた放浪の旅に出ますが、穂庵のくれた三つの印形(どのような印かは不明)を懐中にしていたようです。このことから平福穂庵の門下ともされています。
足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵という人物と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓し美人画で名を挙げることになります。
1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をしますが、ここで諸派名画を模写し寺崎廣業の総合的画法の基礎を築いたとされます。
1892年(明治25年)に寺崎廣業は画家の邨田丹陵の娘「菅子」と結婚し、向島三囲神社の前に住したそうです。これを機に義父の邨田直景の弟で漢学者の関口隆正より「宗山」の号を与えられます。よって「宗山」の印章、号のある作品は明治25年以降の作と推定されます。なおこの印章は大正時代を通して小点の作品にもよく押印されています。
火災に遭って一時長屋暮らしをしたこともありましたが、1893年(明治26年)から稲田吾山という最初の門下生を迎え入れ、1898年(明治31年)には東京美術学校助教授に迎えられています。翌年、校長の岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の広業は美校を去り、天心と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らと寺崎廣業もこれに参加しています。1900年(明治33年)には秋田・大曲・横手に地方院展を開催、故郷に錦を飾ります。
本作品は下記の落款の年季から明治26年の秋の描かれたもので、結婚後に火災に遭った前後の作と推定されます。「宗山生」とあるのはまだ修行時代と自分を捉えていたのでしょう。
*火災時に今まで描いたほとんどの粉本を焼失したとされますが、当方にはその時の粉本を所蔵しています。(他のブログ記事参照)
**この火災時に多くの作品を焼失したにもかかわらず、寺崎廣業は「これでまた新しい作品が描ける。」と述べたそうです。
題名となっている「月空殿」については、詳細は不明ですね。名月の秋に月を描き、そして兎を描いて、殿中を描いて唐美人画を描いています。
寺崎廣業が美人画を描くことに集中していた頃の佳作と言えるでしょう。描いた時期は異なりますが、同じ印章が押印されている作品で本ブログに紹介されている作品には下記の作品があります。
羅浮仙 寺崎廣業筆 明治36年(1903年)頃
絹本水墨軸装 軸先象牙 鳥谷幡山:大正庚申(1920年 大正9年)鑑定箱
全体サイズ:縦2335*横785 画サイズ:縦1315*横645
この以前に紹介した上記の作品もまた同じように中国からの画題の作品であり、この当時は美人画を主にしています。
それではまた来年、良いお年をお迎えください。